イ草の匂いが立ち込める奥座敷で、男は脇息にもたれかかっていた。
 苛立ちのままに眉を寄せ、瞑目して待つことしばらく。
 その傍に女中が身を滑らせると、男にそっと何事かを耳打ちした。
 ――姫が月のしるしを得た。
 男は両目をしっかりと開き、一瞥もくれず女中に命じる。
「〈騰蛇〉(とうだ)を呼べ」
 男の命令は狼煙となり、その夜、四十がらみの男を村はずれに呼び寄せた。
 男は身の丈が半分ほどしかない少年を伴い、足音もなく、夜に沈む村へと忍びよる。
 雲間から差し込む月明かりは水を張ったばかりの水田を淡く照らしても、男と少年がまとう隠密の闇は払えず、夜に紛れ、静謐を壊さず、村の中央にある屋敷へと近付いた。
 屋敷の周囲は侍(さぶらい)によって警護されていたが、ふたりの患いとはならなかった。
 四十がらみの男は勝手を知っている様子で屋敷に入り、中年の女と落ち合った。
 言葉こそ交わさないものの、ふたりは面識がある。
 なさぬ仲ゆえ警戒こそ紐解かぬが、明らかに不審な男を前にしても女は動じもせず、身じろぎひとつで案内役であることを示してみせた。
 ついてこい、という女の対応に、男と少年は足音を忍ばせて屋敷に入る。
 外から見た限りでは村も屋敷も大きくはなかったが、いまは真夜中で人の気配もまばらなためか、少年には妙に広く感じられた。
「御屋形様」
 案内役の女はある襖の前で足を止め、その奥に呼びかけた。
 すると中からパチンという、扇をたたむ音が響き、女を促す。女はその導きのままに恭しく襖を開け、四十がらみの男と少年を中へと進ませた。
 中にはひとりの男がいた。
 手燭(てしょく)の明かりが乏しく、顔は判然としないが、少年の父親ほどの年齢だろうか。
 女が御屋形様と呼びかけたことから、彼がこの屋敷の主であることは想像に難くなかった。
 四十がらみの男は下座で胡坐をかき、少年はその一歩後ろで正座する。
 上座で脇息(きょうそく)に凭れていた館主は、じろり、と少年を一瞥した。
「その者か」
 少年は頭部を頭巾で覆っており、表情はおろか顔すら見ることができなかった。
 唯一、その両目だけは覗いているが、やや俯き加減に落とされた視線はどこか虚ろ気で、闇を彷徨う幽鬼のようにも見える。とても生きている人間とは思えない。
 それ以上に、少年が男であることが館主の癪に障った。
「亜嵩(あがさ)の国がみずちとの密約を守ってきたことは認めよう。……が、その者、男(お)の子ではないか。我らが覡(みこ)に、護衛といえど男を傍置きにしろと言うのか」
 四十男はほんのわずかに低頭すると、感情の窺えない声音で告げた。
「之(こ)は羅刹。いかなる者も覡に害は為さず」
「…………」
 上座の男は訝しげに眉を顰めるも、それ以上は何も言わなかった。それから視線をじろりと動かし、少年の、唯一の剥き出しの目を見、鋭い声で詰問した。
「名は?」
「――カイ」


 ◆ ◆ ◆


 夏を控えているとはいえ、朝はまだ冷え込む季節。
 その早朝に、カイは、床(とこ)で目を覚ましたばかりの娘の前に出た。
 カイの隣には昨夜の中年の女が同席している。彼女は娘に「おはようございます、覡(みこ)様」と恭しく手をついた。
「本日より覡様の身の回りのお世話はこちらの者が行います」
 中年女の視線がちらりと動く。
 カイはそれにせっつかれ、同じように低頭し、名乗った。
「カイと申します」
「え……?」
 少年とはいえ、男であることには変わりない。その性を秘めた声音に、覡姫は明らかに動揺していた。
「い、やです。なぜ嵯峨野(さがの)ではいけないのですか? いままでずっと仕えてくれていたではありませんか!」
 狼狽する娘の様子から、カイは、彼女が何も聞かされていなかったことを悟る。加えて、新しい近侍が男であることも、動揺に拍車をかけているようだった。
 中年女――おそらく嵯峨野という名前であると思われる――は、姫の動揺を払い落すように、にべもなく言い放った。
「御屋形様のご命令でございます」
 中年女の端的な言葉に覡は押し黙る。
 ちらりとカイを見ては逸らし、また見ては考えこみ、やがてあらゆる重苦しいものを呑み込むように、うめき声に近い声をあげた。
「そう……ですか……」
 カイの目にも明らかに、少女の肩が落ちていった。
「……では……仕方がありませんね……」
 納得は――しているのだろう。命令だから、そういう納得だ。諦念と言い換えても良い。
 だがそこに親子の情が差し挟まっている様子はなく、むしろ騰蛇(とうだ)にも頻繁に見られる師匠と弟子、上の者と下の者との差別が見てとれて、カイは眉を顰めた。
「それでは覡様、本日は御宣託の日にございます故、お召し変えをお願い致します。カイ、あなたは覡様のお手伝いをなさい。――では私はこれで」
「あ……」
 嵯峨野と呼ばれた女は言いたいことだけを言い置いて、宣言通り素早く立ち去った。
 その身のこなしは騰蛇として訓練を積んだカイも舌を巻くほど軽やかだった。
 残された室内に気まずい空気が流れる。
 だがいつまでも滞っている場合ではない。
 それに不安に思っているのは姫だけで、カイには感じ入る情感はこの場にはない。カイの頭の中にあるのは、姫の世話役という己の仕事のみであった。
「お召し変えを手伝わせていただきます」
 言うなり、カイは板張りの床を進んで姫の腰ひもに手をかけた。
 するり。
 着物がはだけ、姫の上半身が顕われる。
 白い胸元はさらしで巻かれ、細い肩から伸びる腕は――先がなかった。関節も五指もなく、二の腕がほんの四、五寸(120ミリ~150ミリ)ばかりあるだけだ。
「……醜いでしょう」
 呻いた姫の顔が歪む。
 苦痛と恥辱。
 姫は己の体を恥じていた。
「生まれたときからこうなのです。父はわたくしが生まれてすぐ、わたくしを生んだ母もろとも牢に入れました。村人に知られれば、領主としての威厳が潰えてしまうから、と……。
 ふふ……こんな体では、どこにも行けはしないのにね……」
「……」
 告白というよりも、それは懺悔のように聞こえた。
 彼女はなにを悔いているのか、このような体に生まれたことか? と、カイは眉根を寄せる。
「ですが姫はいま、牢には入っておられませんが」
「それはわたくしに覡のおちからが宿っていると判ったからよ……。わたくしが三つか四つのころ、長雨が降り止むのをぴたりと当てたんですって。そのおかげで牢からは出されたわ。……でも母さまは亡くなってしまって、わたくしはずっと、この奥座敷にひとりきり」
 追懐を泳ぐ姫の目を、カイは静かに見つめる。
 その黒い瞳に灯る、仄暗い光が印象的だった。
「……私は、外の世界を知らずに育ちました――」
 手にかけた腰ひもを落とし、カイは作業にいそしんだ。姫の着物を肩から落とし、傍にあった新しい着物を羽織らせる。真っ白なそれは姫の肌の白さをいっそう引きたて、まるで雪のようであった。
「だから何が美しく、何が醜いのか、よく分からないのです」
 姫の深淵の目がひたりとカイを見据える。「外の世界?」
 カイは頷いた。「里の外です」短く告げる。これ以上は里の掟に触れてしまうので言えないのだ。
 姫は好奇心とそれをはばかる良心との間でせめぎ合っているように見えたが、カイの胸中を悟ってか、里についてそれ以上は言及しなかった。ただぽつりと話題を変えた。
「ではなぜここに来たのです?」
「姫のために」カイは即答した。「私は姫の身の回りのお世話をする者として育てられました」
「わたくしのため……?」
「はい」頷き、カイは続けた。「私は捨て子で、親の顔も知りません。ただ姫の従者に良い年頃だからと拾われ、育てられました。――だから姫は私の恩人なのです」
 信じられないのだろうか。姫の目がカイを捉えて離さない。
 カイは姫の疑心に誠意をもって答えるべく、視線を決して逸らさない。
 言葉もなく、ただその瞳だけで、ふたりは胸の内を交わした。
「……わたくしなどのために……」
 うつむく少女の心に去来している責任感がカイにも伝わる。
「いいえ」
 その心を、カイは否定した。姫の白魚の手をとり、己の心を伝えようと必死になった。
「姫のおかげです」
 肌からぬくもりが伝わるように、この心が姫に伝わることを、切に願った。


 ◆ ◆ ◆


 広い座敷の上座にて、男はひとり、上座に座っていた。
 思考に浮かぶのは今後の国の運行のこと、ことさら、阿嵩(あがさ)の国との関係が思いやられる。
 平野に大きく田畑を広げる蛟(みずち)の国は、隣国の阿嵩(あがさ)の国に多分に依存している。
 それもこれも、阿嵩が山麓に国を構え、水源を押さえているからだ。のみならず、阿嵩は何十年も前に大規模な治水工事を行って、下流への水の流通を自在に制限している。
 収穫した作物で国力を得ている蛟は、阿嵩を無視できない。
 そのため、長年、蛟は阿嵩の属国のような扱いを受けていた。
 ところが、十数年前。
 姫が生まれたことにより、事態は転機を迎えた。
 生まれた国主の娘は、水の運行を読むことができたのだ。
 雨の降る日、その水量。果ては地下水脈の位置まで。
 新たな水資源を得た蛟は、国主の命令で水路工事を行い、少量ながらも河以外の潤いを手にし――
 徐々に阿嵩の傘下を離れようと国力を蓄え、発言権を強めていった。
 これに焦ったのは他ならぬ阿嵩だ。
 山麓にあるゆえに平地の確保が難しい阿嵩は、民の食料の大部分を阿嵩との取り引きで得ている。これまでは水を提供するという名目で米や野菜を安く仕入れられたが、他の水源が出たとなるとそれも難しい。
 実際、蛟の国主は折りを見て取引額の引き上げを要求している。
 そのため阿嵩は「神託を得る」という口実で姫に近付き、「姫の身辺警護」という名目で隠密集団、騰蛇(とうだ)を送り込んできた。
 現在の蛟に、これを跳ね付けるほどの力はない。
 水脈を得たといっても、それは到底河の恵みには叶わないし、民草やすべての田畑を賄える量ではないからだ。未だ河の水は欠かせないのだ。
 それに阿嵩は権力を振りかざしているとはいえ、蛟の大口の取引先でもある。機嫌を大きく損ねてしまえば取り引きそのものをしないと言いかねない。そうなれば、阿嵩と友好関係を築いている他の国々からも白眼視を受けるだろう。
 結果として蛟の国は阿嵩の干渉を受け入れるしかなく――
 カイという頭痛の種を囲いに入れてしまうことになった。
 当面のところカイと言う少年に目立った動きはないが、
「御屋形様、覡姫様、お休みになられました由。かの方(ほう)も動きは御座いません」
「――引き続き、監視を怠るな」
 女中の報告に、男は低く注意を促し、意識を改めさせる。
 いつ、どのような手段で、阿嵩が姫を――蛟の国の発展を奪いに来るとも知れない。
 国主はその懸念に眉をしかめた。


 ◆ ◆ ◆


 鉈のような剣が振り下ろされる。
 ずん、と、極めて重いそれを、カイはなんとか受け切り、気合いの声とともに押し返した。
 止めて当然と考えていたのか、相手は全く動じず、それどころか一歩踏み込んで剣を突き出す。
 返すのが精いっぱいだったカイは覚束ない手元で己の剣をふるうも、簡単に武器を吹き飛ばされ――
「……!」
 続けざまに首元に剣先を突きつけられ、身動きがとれなくなった。
「……参りました」
 悔しさを滲ませながら宣言すると、相手――カイの師は、無言のまま納剣する。その指の一本一本にまで気の行き届いた美しい所作に、カイは自分と相手との実力差を痛感していた。
「まだまだだな」
「はい……」
 年月を経て、身長が伸び、男らしい体つきになってきた。筋肉が増えたことで、剣もより重くすることができた。そのぶん技術を磨き続けてきたつもりだが、まだまだ越えられない壁がある。
 その壁たる男は、うな垂れる弟子から目をそむけ、辺りに気を配っていた。
 田園からやや離れた見晴らしの良いところではあるが、近くには森があり、背の高い雑草もあるため死角が多い。それらのいずれからも、こちらの様子をうかがっている気配が感じられる。
 カイを――正確には、騰蛇(とうだ)を監視する蛟(みずち)の国主の手の者だ。
 館内での監視の目は年月の経過とともにいささか緩んできたような気がするが、月に一度程度の師匠の来訪の際には、もっとも厳しく、もっとも数が多くなる。
 それだけ国主は阿嵩の国の動向を憂慮しているのだろう。
 師匠はそれに気付いているにもかかわらず、おくびにも出さない。表情にも、態度にも。
 ただ周囲を一瞥し、監視の目を確認しただけに留め、再びカイに視線を戻した。
「姫の様子は?」
「――お変わりありません」
 感情が籠らぬよう、注意を払って答えたつもりだったが、師匠はカイの平坦な声音に何かを感じ取ったようだった。
 目を細め、こちらを睥睨する師匠の気配が、わずかに冷気をまとう。
 しくじっただろうか。
 内心で冷や汗をかく。
 嘘を言ったつもりはない。みずちの姫は変わらず健在だ。カイが姫の傍に召し抱えられて早数年、屋敷の奥に籠り、ときおり神託を下す以外は部屋からも出ず、ただただ静かに過ごしている。
 変わったのはカイのほうかもしれない。
 昔は気にもかけていなかった蛟と阿嵩の確執、姫をめぐる国の思惑を、鬱陶しく感じるようになっていた。清廉な姫に、邪(よこしま)な欲を近付けたくない一心で、姫を監視する阿嵩の――つまり師匠の目を誤魔化そうとしている。
 そんな下心を見抜かれてしまったのではないか……。脳裏に焦りが浮かぶも、この重苦しい沈黙こそが師たる男の手管なのだと自分に言い聞かせ、心を鎮めた。
「カイ」師匠は重々しく告げた。「お前は騰蛇だ。それをゆめゆめ忘れるな」
 師匠の気配が森の暗がりに紛れ、消える。
 同時に監視者たちの数も半減してしまった。師匠を追って行ったにちがいない。師匠が何事もなく国を出るまで監視するつもりなのだ。
 残り半数の目を気にしつつも、のろりとした動作で立ち上がり、師匠が消えた森を一瞥する。
 次の稽古はひと月後。
 それまでにまた改めて修練を重ねようと決意し。
 その足元に、稽古の際に切り落とされてしまった野花が落ちていることに気付いて、拾いあげた。


 国主の館に戻ると、カイはそのまま姫の部屋へと向かった。襖越しに帰宅を告げると、入室の許可が下りる。
 姫は鳥かごに飼われたメジロを静かに観察していた。
「おかえりなさい、カイ」
 穏やかな微笑を見て、カイはほっと息を吐いた。それを経て、いままでひどく緊張していたことを自覚する。
 阿嵩の目、蛟の思惑、姫にまとわりつく暗がりは払いのけられない。カイにはそれだけの力がないのだ。師匠に叩きのめされたことを思い出し、苦々しさに顔をしかめる。
「カイ?」
 はっと我に返った。
「……すみません」
「謝ることではないわ。どうしたのですか? なにか良くない知らせでも――」
「いいえ、師匠に今日も負けてしまっただけです」
 なるべく感情を乗せない声で言ったつもりだった。顔は覆面で全体が隠れているから表情を読まれる心配はない。
 だというのに、姫はカイの心中を鋭敏に察知してしまう。
 神通力とはちがった彼女の特技に、カイは困り果ててしまった。
「すみません」
「謝ることではない、と、言っています……」
「……すみません」
 襖を閉め、姫から一歩離れたところに正座した。
 メジロがぴぃ、とひと鳴きした。
「このまえ、阿嵩の御方のお使いがあったのは覚えている?」
「はい――」
 カイは神妙に頷いた。
 阿嵩の国からは定期的に使者が姫を見舞いに来る。秘密裏に送られたカイとはちがった、阿嵩の国主の正式な使者だ。阿嵩と蛟における売買条約の確認と姫の見舞いという口実を立て前に、その実は阿嵩の地の水の気配を占ってもらうためなのだ。
 もちろん、豊富な水資源に恵まれている阿嵩は、蛟のように水脈を見る必要性はない。その逆――他国の水の行方を占い、その国の足元を勘定して、より高く売りつけるために。
 蛟の国は姫の力を阿嵩に貸す対価として、一定量の河の水量を得ることを約束している。
 おのが国のためとはいえ、姫の力が損得勘定に挿げ替えられていることをカイは良しとは思えなかった。
 姫もいろいろと思うところはあるのかもしれないが、彼女は決してそれを口に出したりしない。
 彼女には反抗は許されていないのだ。
 四肢を持たず生まれた彼女に許されているのは、ひたすらな従順だけだった。
 そしてそれはカイも同じだ。
 騰蛇から与えられるものを甘受しなければならない。今のカイには、「姫の監視」という「命令」がそれに当たった。
「お声を聞くことはかなわなかったの」
 誰の、とは言わない。また言われずともカイには彼女の言葉の意味を理解できた。
 姫に水見のちからを授けている「モノ」をどう呼んだらよいのか分からない、と姫は言っていた。例えるならばそれは太陽の光のように降り落ちて来、空気のように姫の内部に吸い込まれるらしい。
 どこにでもあり、どこにでも満ちているもの。
 自分はそれに気付くことに長けているだけだ、と彼女はいう。
 故に姫はそれを「声」と呼ぶ。もちろん本当に声が聞こえるわけではないが、その言葉が一番近いそうだ。
 ところが最近、その声が姫に届かない。
「また、ですか」
「ええ、さすがに不審に思われてしまったわ」
 苦いながらも笑えるのは、さすがかもしれない。
 だが実際は彼女の微苦笑以上に困った事態だっただろう。使者の怒り顔が目に浮かぶようだ。声を荒げ、姫覡を罵ったりしたかもしれない。属国のくせに、と。
「カイが呼び立たされたのは、きっとそのせいね」
 まさか、という言葉とともに一笑したかったが、出来なかった。それだけの異常事態だし、それをあえて口にする姫の心配を笑い飛ばすようなことは出来なかった。
 去り際の師匠が思い出される。今思い返してみると、姫の様子を聞く声音はいつもよりも硬かったかもしれない。
「阿嵩の御方も、お父様も、不審に思われているんだわ――」
 姫の眉間は珍しく寄り合っていた。花のかんばせに似合わぬ面相、カイは心苦しく思う。彼女は自分の身を案じてくれている、そう考えると、いくばくか嬉しい気持ちもあった。が、そんな瑣事に悩み困って欲しくはなかった。
 カイは持ち帰った一輪の花を差し出した。茎の節ごとに葉が伸び、その尖端には三枚の花弁を持った小さな花が咲いていた。
「可愛いわ」
「イボクサです。ただの雑草ですが――」その辺りに咲いている草も同然の花を、主たる姫に渡すのには少し抵抗があった。どうせならもっと豪奢な花を贈りたい。きっと姫には美しい花が似合う。だがカイは雑草であることをあえて告げ、続けた。「水田の傍によく咲いています。姫のおかげで、今年も稲が良く実っていました。もう少し経てば刈り入れが始まるでしょう」
「そう」
 覇気のない受け答えではあったが、その表情は一変し、柔らかであった。
 覆面の下で、カイは笑む。姫に一番似合いの面(かお)が見れて、嬉しかった。だからつい――嬉しさに気が緩み、また姫のためということもあり、提案した。
「見に、行きませんか?」
「え?」
「ここには一輪だけですが……外にはまだ沢山咲いています。気分転換になるかもしれませんし……」
「…………」
 イボクサに視線を落とす姫の表情は見る間に曇った。
 答えなど聞かずとも、その顔を見ればそれだけで十分なほどに。
「無理よ、お父様がお許しにならないわ」
 姫はもう何年も屋敷の外に出ていない。少なくともカイがこの屋敷に来てからはただの一度も外には出なかった。自由になる手足がないこと以上に、彼女の父親が監視の目を光らせているからだ。
 その目は最近はカイに向けられていているが、四六時中姫の傍にいるカイの動向は、そのまま姫の行動に反映する。姫覡に自由は許されていないのだ。
 だがそれで諦めて欲しくはなかった。
 いつものカイならば、姫に拒否された時点で諦めただろう。だが今日は――神託が得られない姫の気落ちが著しかったためか、あるいは、気まぐれに持ち帰った一輪の野草が引き金になったのか――娘の自由を奪う父親に、あるいは利権だけしか見ていない大人たちに、ささやかに反抗して欲しいと思った。
 それはカイの反抗でもあったから。
「真夜中にこっそり抜け出すのはどうですか?」
「こっそり?」
「はい、警備の抜け道は知っていますし、短時間なら気付かれないでしょう」
「……でも」
「お屋敷からそう遠くありません。大丈夫ですよ」
「…………」
 姫の目が彷徨っている。
 気持ちの揺らぎを見つけたカイは、ここぞとばかりに言った。
「姫に見て頂きたいんです。姫が御神託を得ることで守っておられるものを」
 それは農作物ばかりではない。農作物から得られる金品で、蛟の人々は生活をしている。姫が阿嵩の国にも神託を告げているため、阿嵩の国力で蛟の国は潤っている。また他国の侵略もない。
 姫が守っているものは大きい。
 ところが当人はそのことに気付いていない。
 傍で姫を見守るカイにはあまりにも歯痒かった。
「……ほんとうに、すぐに、帰れるの?」
 心配そうな姫にカイは力強く頷いた。


 ◇ ◇ ◇


 それは姫にとって初めての外出だった。
 長らく姫は外に出ることを禁じられており、また、姫自身も外部に興味を示さなかった。むしろ、彼女は恐れていた。自らの体の不具合を、人々に奇異の目で見られることを。
 しかし今は夜だから、誰の目もない。またカイも、姫を誰の目にも触れさせるつもりはなかったから、いつもよりもずっと慎重に歩を進め、屋敷を出て目立たないところまで進んだ。
 半分より少し膨らんだ月は明るく、水田の実りを照らしている。
 こうべを垂れた稲穂は時折強く吹く風に煽られ、さわさわと微かに音を立てた。
 刈り入れまでもう少しという具合だろうか。
 姫の神託によって十分な治水が行われた結果は、今年も十分な結果を出していた。
 カイは柔らかな草の上に敷物を敷いて、ゆっくりと姫を下ろした。
 生まれつき手足のない姫は、そのぶん体幹がしっかりしているので、動かない時はカイの手は必要ない。それでも念のため近くに立って控えていると、姫に座るように促された。
「見下ろされているようで落ち着かないわ」
 そう言われては従わないわけにはいかない。かといって臣下としての分を弁えようにも、姫から離れることは躊躇われ、結局ひと通り悩んだ後、カイは姫の傍近くで片膝をついた。
 それからの沈黙は長く。
 何度めかの突風を浴びた後、遠くを臨んでいた姫がぽつりと言った。
「……こんなにも広かったのね」
 それが何を示唆した言葉なのか、考えずともカイには分かってしまった。
 カイが知る世界は狭い。育った里と、この村と、せいぜいそのくらいの土地しか知らない。
 しかし姫の知る世界はもっと狭い。村の中の、屋敷の中の、さらにその奥に宛がわれた一室が彼女の「世界」なのだ。そこには壁があり、障子があり、天井がある。限定された空間の中が彼女のすべてだった。
 神託を頂く覡(みこ)が、龍神に愛された娘が、誰よりも高みに入るはずの少女が、自分よりも狭い世界しか知らないということに、言いようのない苦心がこみ上げてくる。
 どうしてこのような苦界を生きねばならぬのか。
 手足を持たぬからか。
 天の声を聞くからか。
「――姫は……」
 風が吹き、カイの声を攫う。だが去ってしまう前に、その声は姫の耳に届いたようだった。姫の黒い瞳に射抜かれ、カイは観念するように声を絞り出した。
「姫は……逃げたい、と、思ったことはないのですか……?」
 どこから、とも、どこに、とも。
 問わず、神の娘は真っすぐカイを見た。
「カイは逃げたいと思ったのですか?」
「……」
 思った。何度も。
 だが出来なかった。
 里を出れば、カイは無力な子どもでしかなく、外の世界で生き残るすべを持っていなかったから。だから里にいるしかなかった。
 ――姫も同じではないだろうか。逃げても、生きていく手段がない。そもそも姫は逃げる手立てが、文字通り、無い。だから姫も……。
「カイ――」
 包み込むような優しさが滲む声が、カイの心の涙を拭った。
「ごめんなさい、聞いてはいけないことでした」
 姫は一度だけカイの目を捉え、それからまた長閑な夜の水田へと視線を向けた。
「カイ、わたくしは、何かを望むことはとうの昔に諦めました。そう――牢に押し込められ、出してもらえず、病を得た母の、冷たい指に触れたときのことです。あのとき、わたくしは全てを放棄したのです。――そのはずでした」
 そうして姫の目は空に輝く月へと向かった。
「でも、本当にそうだったのかと、いまは疑問に思うのです。御神託を告げるのは、誰かにわたくしを見て欲しいという願望ではないのか、認めて欲しいという望みではないのか、と」
 そして、姫の目は再びカイを捉えた。
「あなたもでしょう? 辛い日々から逃げ出さなかったのは、認めて欲しかったからではありませんか?」
 心にじんわりと染みてくる言葉を受け止めながら、カイはその言葉を何度も反芻し、これまでの自分に何度も照らし合わせた。
 思い返してみれば、姫の言った通りの気持ちが、何度もあったのだ。
 師匠との剣術の修練も、騰蛇として求められる技術を習得するため励んだのも、カイの生き方すべてが「そう」だった。
 だが大人たちはカイを侮蔑の目で見下すだけで、カイを決して受け入れてはくれなかった。なぜなら――
「カイ、その頭巾をとりなさい」
「――!」
「あなたがその面の下に、何かを隠そうとしていることは知っています。でも全てを見せてくれなければ、わたくしはあなたの全てを受け入れることはできません。それに――」
 言葉の先を少しだけ濁し、姫はそっぽを向いた。恥じらうように、花のように、その頬と耳にはほんのりと赤みがさしていた。
「不公平です、あなたはわたくしの秘密を知っているのに……わたくしは知らないなんて――」
 ごにょごにょと不明瞭な言葉は、覡(みこ)として霊験を仰がれる姫ではなく、年齢相応の少女が羞恥を押し隠して発していた。
 カイはそれを愛おしく思い、その思いは、頭巾を取り除く恐怖よりもずっと上回った。
 カイは頭巾をしゅるり、と解いた。
「きれい……。まるで月の光のようね……」
 呟く姫の声は、驚きと憧憬とが入り混じっていただけで、怖れおののくような震えはなく、カイは心の底から安堵した。
 カイの母は異人だった。美しい容貌をしていたらしい。どこから来たのかは知られていない。彼女はふらりと騰蛇の里の外堀に迷い込み、そして息絶えたのだ。
 彼女の腕には生まれて間もないと思しき赤子が抱かれていた。里人はいずれ子も死ぬだろうと知らぬふりをしていたが、半日後みずちの姫のおちからが里長に伝えられ、カイは姫の従者になるべく拾いあげられたのだ。
 母親に似た髪の色が姫の気を引くだろうという、浅はかな思惑があった。
 結局カイは実力を示して師匠と里長を納得させた上で姫の許に送られたのだが――。
 姫に促され、カイは姫の傍近くに寄った。
 主人と従者としてではなく。
 年齢の近い友人としてでもなく。
 似たような傷を抱える似た者同士として、ふたりは近くに在った。

 そうして幾ばくかの時が過ぎたころ、ぴくり、と姫の肩が震えたような気がして、カイは首をかしげた。
「姫?」
 隣に座る姫の目が、霞みを帯びて遠くを見ている。その視線は月にあり、稲穂にあり、定まっていない。
「姫……?」
 もう一度問いかけたとき、姫は鋭い声をあげた。
「カイ、屋敷に戻ります! 急いで!!」
「は、はい」
 姫の厳しい顔に焦燥を見い出し、カイは慌てて頭巾を巻くと姫を抱き上げた。。

 屋敷に戻るや否や、姫は父長の枕元へ行くようカイに命じた。
 館主はまだ就寝前で、夜着ではあったもののすぐに目通りは叶った。
 姫を横抱えにして大広間に入ったカイは、館主の神経質そうな眉の動きをしっかりと見る。おそらく、姫が、従者と刃はいえ男と接触していることを気にしているのだろう。それが父親としてのものなのか、国主として覡の清らかさを憂慮するゆえなのか、カイには判然としない。ただ姫のために、前者であれば……と、心の片隅で思った。
「ご就眠前に大変申し訳ありません。急ぎ、謹告がございます」
 畳に下りた姫は矢継ぎ早に告げる。それはカイが知る限り、決して親子の交わす言葉ではなく、国主と覡としての明確な線引きがされていた。
「今すぐ国中の実りを刈り入れて下さい。近く、国に嵐が訪れます」
 カイは息を飲んだ。少し前の、遠くを見ていた姫を思い出す。あれはたぶん――ご神託を受けていたのだろう。
 姫の言葉は今まで一度もはずれたことがない。だからこそ国主は姫を屋敷の周りに厳重な警備を敷いて、阿嵩の国主は騰蛇を――カイを使って、姫の動向を少しでも探ろうとしている。
 その姫が、嵐が来ると言っているのなら来るのだろう。姫の緊迫した様子からはその嵐の規模が窺い知れるし、姫の忠告はそのまま国が被るであろう被害の大きさを訴えていた。
 明日から村人は忙しくなるな――と、半ば悠長に考えていたのだが。
 姫の言葉を受けてもなお、微動だにしない館主に気付き、カイは被り直した頭巾の下で訝しんだ。
 なにか、様子がおかしい。
「――おかしなことだ」
「……?」
 館主が発した声の中に、姫もなにかしらの異変を感じ取ったようだった。彼女は腰を折りつつ、顔だけを実父に向けた。
「村を見る限り、そのような兆候はない。空は清々しく晴れ渡り、風はそよいでいる。嵐の予兆など無い――何を言い出すかと思えば……」
 不意に、その視線が動いた。続いてぴくり、と眉が動く。同時に、館主の背後に炎が揺らめいた――かのように見えた。
「なんだ、それは」
「え?」
 刺すような視線が姫の袂を貫いた。
 そこにあったのは、ほんの小さな一枚の草葉。
 さっきの外出のとき、着物に付着したのだろう。
 ただそれだけのこと。
 しかし館主は、国主は、姫の父は、それを見て、腹の底から震える怒号を放った。
「なんだ! それは!!」
「何の――きゃっ」
「姫!」
 上座から一歩踏み出した館主は、言訳(ことわけ)をしようとする姫を平手で打った。
 バランスを大きく崩した姫は己の体を支えることができず、打たれた頬とは反対の頬で畳を擦る。
 カイは姫を支えようとしたのだが、腕が届かなかった。館主に阻まれたのだ。
 血走った眼でカイを見下ろす館主は、明らかに正常ではなかった。強烈な怒気が逆巻いて、館主の背後で焔となって立ちのぼっていた。
「お前か……!」
 姫に気をとられていたカイは、館主に踏み込まれ、胸倉を掴まれた。
 しまった、と焦っているうちに罵声が浴びせられる。
「これがお前たちの狙いか!? これが目的だったのか!!」
 服の締め付けが厳しく、否定の言葉はかすれてしまった。
 カイは大きく突き飛ばされ、背後の障子に背中から突っ込んだ。
「誰かおらぬか! この不届き者を捕らえろ!!」
 館主の声は高らかに響き渡り、あっという間に数人の男が現れた。カイは反射的に身構えるが、転んだ体勢からでは動きは鈍く、誰とも知れない人物に殴られた。
「カイ!! カイ……いやあ!!」
 姫の声が遠い……。
 カイはそのまま意識を闇に呑まれた。


 ◇ ◇ ◇


 気付いたカイの手と頬に、畳の編み目の感触があった。
 視界は暗い。夜のようだ。
 慌てて体を起こし、周囲を確認したが誰もいない。部屋の端には襖でも障子でもなく、頑丈な木枠が嵌めこまれていた。――座敷牢だ。かつて、みづちの姫が押し込められていたという場所だろうか。以前、姫からちらりと聞いた話によれば、座敷牢は姫の部屋からそう離れていない、ということだが……。
 住み始めて数年の屋敷の見取り図を想像しつつ、カイは背中を壁に預けた。
 気を失ってどれくらい経ったのだろうか。
 それにしてもずいぶんと間抜けに捕まってしまったものだとカイは己を叱責した。
 屋敷を出る時も戻る時も、誰にも気付かれなかったのですっかり油断していたのだ。あるいは姫に急かされて気が回らなかったためもあるだろう。
 いずれにしても己の失態に嫌気がさす。
 同時にカイは館主の怒りに対しても理不尽さを募らせた。
 姫から人を遠ざけたのは館主だ。父としての情など一切見せず、あまつさえ母親とともに投獄した。姫の覡としての力が発現してよりは道具として扱い続けた。そんな姫が誰よりも身近なカイに心を許してしまうのは当然だ。阿嵩との関係上、カイを姫の傍に置かねばならなかったというのなら、館主は姫の傍に、姫が信頼を寄せるような人物を据えておくべきだった。そう――…たとえば、姫の実の母親のような。もし彼女が生きていたら、姫は異性であるカイにもっと警戒心を抱いていただろう。
 だが姫は人恋しさゆえに警戒を緩めてしまった。
 それはカイにとって都合が良かったのか、悪かったのか、どちらとも言えない。姫が信頼してくれることは単純に嬉しかったが、姫の動向を騰蛇の里に報告しなければならない身の上としては心苦しさでいっぱいだった。
 もし館主が姫の心をおもんばかっていたら、カイもこんな苦しさに苛まれることはなかっただろう。
 皮肉に口が歪む。
 カイはそこでふと、雨音を聞いた。
 小雨でも降っているのかと思ったが、よくよく耳を澄ませてみると、雨音はもっとはっきり強く聞こえる。かなりの雨量を想像したところで、脳裏に姫の言葉が蘇った。
『嵐が――』
 ぞわり、と、全身の毛が逆立った。
 不安に駆られたカイはすぐに牢の出入り口に飛びつく。当然そこは頑丈な錠前で施錠されていたが、服に仕込んだ針金と、騰蛇の里で培った技術の前に、錠前はあっさりと降参した。
 低い扉をくぐり牢を出る。いまさら気付いたが見張りはいない。耳を澄ますと雨音はいっそう強く聞こえ、その音に紛れて人の声も聞こえた。それはどこか焦っているような、乱暴な声だった。
 右と左を確認し、とりあえず左へ。そこには粗末な木戸があり、それは外へ通じていた。
 驚いたことに、外は大雨と、強い風で、暗い夜をいっそう闇に沈ませていた。
 すぐ近くに母屋がある。そこへ向かおうと飛び降りると、ばしゃり、と水が跳ね、そのままカイの足は甲まで沈んでしまった。
 国主の館は特別低い土地にあるわけでもない。しかし高い土地にあるわけでもない。その屋敷がこれだけの水に見舞われているということは、やや低い土地に広がる水田はどれほどの被害に遭っているのか――
 つまり、姫の予言は的中したのだ。
 確信すると同時に嫌な予感に見舞われたカイは、庭石を飛び越え母屋に移り、屋敷の廊下を不躾に走った。すぐに姫の部屋にたどり着いたが、襖の向こうに姫はいなかった。それどころか居た形跡もない。夜に、カイが姫を外へ連れ出したときのままの状態だ。
 ではどこに?
 ひどく浅い息を繰り返しながらカイは身をひるがえす。そして一番最初に出会った人間を捕まえた。
「教えてくれ! なにが起きているんだ!?」
 年若い女で、カイよりも身長の低い彼女は、捕らえられたはずのカイがどうしてここにいるのか、という疑問は持たなかったのか。あるいは、カイが捕縛されたこと自体知らないのか。いずれにしてもひどく焦った様子ながらも状況を教えてくれた。
 夕暮れから降り始めた雨は雨脚を強める一方で、小半時もしないうちに川が氾濫してしまったらしい。田畑はあっという間に濁流に飲まれ、成す術もなく流された村人もいるとか。
 姫の予言を信じなかった国主はここに来て焦り、姫を人柱に立てる準備を始めたらしい。
「人柱……!?」
「予言をなさる姫様ならば、水神様を鎮められるはずだからと」
 瞠目しながら、カイは唇を強く噛んだ。
 勝手なことを!!
 姫を道具のように扱い、あまつさえ姫の神託を信じず、その結果、人柱に立てるなど、一体どこまで本意に扱えば気が済むのか!
「国主……いや、姫はどこに?」
「村はずれの川の上流に――あっ」
 掴んでいた女の腕を投げるように放し、カイは再び走りだした。
 夜に降る雨は、その雨音から相当の大雨だということは分かっていたが、その勢いはカイの想像を遥かに超えていた。
 村の中央の屋敷を飛び出して十歩も走らず、全身が雨にまみれるのだ。着物は水を吸い上げ重くなり、カイの忌々しい髪を隠す覆面もずっしりと、また、急激に体温を奪っていく。
 川から水田へと流れるように作られた用水路からは水があふれ、そこらじゅうが水浸しだ。場所によっては脛ほどの高さにまで水かさが増しており、実を膨らませた稲穂はこうべを垂れていた。
 姫の居場所は苦もなく見つけることができた。
 この雨の中、水が溢れる危険な川沿いにいる人間などそうそういない。人影は小さな集塊になっており、姫の父の国主の他、手練と思われる武人が三人と、屋敷で見かける下男が一人いた。姫は彼らの足元に、物のように打ち捨てられており、カイはカッと頭に血を登らせた。
 カイに気付き、国主が武人に警戒を促すが、遅い。先頭をきって向かってきた武人の長い腕を避け、懐にもぐりこむと、渾身の力をこめて顎を砕いた。次の男は足を払い、倒れたところに鳩尾を打って昏倒させる。三人目は、飛び込むのを躊躇っているところにカイから近付き、怯んだ一瞬を見逃さず背負い投げた。びしゃり、と水が跳ねる。だが元より雨で濡れ滴っているので、跳ねた泥水など物の数に入らなかった。
 視線を動かす。残りは二人、国主と下男だ。
 カイは迷わず国主に足を向けた。二歩、三歩と進み、国主がじりっと半歩だけ後ずさりしたことをきっかけにひと息に間合いを詰める。
「…!」
 一瞬、国主が姫の父親であることが思い出されたが、すぐにその考えは捨てた。
 これの、一体どこが、父親なのか。
 とはいえカイも、父親というものを知らない。生まれて間もなく母も死んでしまった。それを考えるとカイは姫以上に親というものを知らない。
 だが知らないからこそ、願望のような両親像があるのだ。もちろん現実の親は、その偶像通りにはいかないのだろう、とは思っている。親とて人間だ、失敗はあるのだろう。
 それでも――国主はカイが抱く理想像から著しくかけ離れていた。ゆえにカイは国主が父親であることを忘却し、ただただ姫に理不尽を働く不届き者として殴り捨てた。
 ありったけの感情を込めた拳は国主の顔にめり込み、国主はあっさり昏倒した。
 大して動いていないというのに息が切れているのは、暴力を揮っている間、息を止めていたからだろう。肩を上下させながら息を整えていると、暗闇の中にもう一つの人影を思い出す。
「ひい!」
 カイがそちらへ視線を移すと、人影――屋敷の下男はどすんと尻もちをついた。そして昆虫のように手足を動かしてなんとか立ち上がり、ひい、ひい、と浅い呼吸を繰り返しながら一目散に逃げていった。
 ようやくひと息つく。
 不純物が入り混じる感情を長いため息と一緒に吐き出して、ささくれ立った心を宥め、姫と顔を合わせられる状態を作った。
 少し離れたところにいる姫に近付き、姫の体を起こす。そのまま抱き上げようとしたところ、姫の上肢が力なくカイにもたれかかって来た。どこかを痛めつけられ、怪我を負っているのかと一瞬焦る。だが強い雨音の向こう側にすすり泣く声を聞きつけて、カイは唇を噛んだ。
 痛めつけられていたのは体ではなく、心だった。
 衝動のまま、カイは姫を抱きしめる。
 か細い姫の鳴き声を聞きながら、どうしたらこのひとを守ってやれるのか、泣かせずに済むのか、自問するも、カイに答えは見い出せなかった。
 やがて姫は泣きやんで、上肢を少しだけカイから放した。そのぬくもりに未練を覚えつつも、カイは姫の顔を直視した。闇の中だが、カイの目にははっきりと姫の顔が見えた。
 涙の宿った瞳、苦悩を刻む柳眉、そして決意を含んだ唇――。まろやかな頬がそっと近付いて、カイの頬を優しく愛撫する。
 目を閉じたカイは、その滑らかな肌を感じ取りながら、終わりの時を確信した。
「カイ、お願いがあります。わたくしをこのまま、龍神の御許へ」
 強張った声だった。決意で固められた声だった。
 抗議しようとしても、カイの口は動こうとしない。いま自分はとても情けない顔をしていることだろう。
「……カイ」
 改めて名を呼ばれ、カイは姫と視線を合わせた。
 姫の瞳はこんな状況にありながらも美しく澄んでいた。
「ごめんなさい、あなたには、迷惑をかけてばかりですね……。あなたのこれまでの人生は、すべてわたくしの責任です」
「ちがいます」
 否定の言葉は条件反射だ。カイはこれまでの自分の扱いを不当だと感じてはいたが、それを姫のせいだと考えたことは決してなかった。むしろカイにとって姫は命の恩人で、希望の星だ。いつか出会えることを夢に見て、そして叶った。この歓喜を、欣幸を、姫にも分かって欲しい。だからカイは姫の思い込みを強く否定し、言葉を尽くして己の思いの丈を示した。
「それはちがいます。姫は、私の全てです。生まれ落ちたその瞬間から私は姫のために在り、姫のために育ちました。そしてこれからも――」
「いいえ、カイ、あなたはここで生まれ変わるのです。その面を取って、自由になりなさい。わたくしのためではなく、あなたはあなたのために生きるのです」
 姫の声は力強く、寺の鐘のように重く深く響いた。
 カイにはこれを否定できない。それは村人に告げられる神託のごとく、絶対的な言葉だった。
「ならば」
 カイは頭巾を外した。月も星も雨雲に隠れた光のない世界で、唯一、穏やかな輝きを宿した髪が顕わになった。
「私が私のために生きろというのならば、姫、いつまでもあなたのお傍に居させて下さい。自由になった私が選ぶのはいつだって姫だけです」
 それに――と、続け、カイは姫の瞳を覗きこんだ。
 夜目の利くカイの目には、姫の目に溜まる涙がはっきりと見てとれた。
「姫は、実は寂しがり屋でしょう。だから私が、傍に」
「わ、わたくしは、別に、そんな――……」
 強がりは次第に尻すぼみ、やがて泣き顔へと変わった。
 愛おしい。その涙も、傷ついた心も、逃れられぬ使命も。
 ときどき見せてくれた、はにかむような笑顔。
 遠くを追いかける瞳。
 カイはその全てを受け入れるように、もう一度姫を抱きしめた。
 どのように強い雨であろうと、もはやふたりを引き離せるべくもなく。
 上肢を離したカイはそのまま姫を横抱きにし、荒れ狂う濁流へと共に身を投じた。


 ◆ ◆ ◆


 みずちの里には文献が残っている。
 さる秋の日に、季節外れの大雨が降ったことを。
 その日、ひとりの娘が人柱になったことを。
 娘が濁流に呑まれたその直後、風雨は消えるように止まり、致命的な被害は避けられたことを。
 だがこの嵐にみまわれたこの年の収益は少なく、嵐の中辛うじて助けられた当時の国主は村人の不満を買ったという。
 そして不満はすぐに不信へと代わり、国力の減退へと繋がって、国は隣国に併呑されて失われたと最後に締め括られている。

 そして文献には残らなかった事実もある。
 昨夜の嵐が嘘のように快晴を迎えたみずちの里では、川の下流から引き揚げられたひとつの遺体の処理に困り果てていた。
 遺体の損傷は酷く、顔が潰れてどこの誰かも分からない。ただその髪の色は人間とは思えないほど鮮やかな色をしており、村人は鬼ではないかと囁きあった。
 闇夜に紛れて鬼が現れ、姫覡を食らったのだ。川の神はそのために怒り狂い、鬼を払うため川を暴れさせたのだと。
 よくよく考えれば辻褄があわない部分もある。だが頼りきっていた姫を――姫の予言を失った村人には、失ってしまったその理由が必要で、国主もまた自分に向けられるであろう不満を一時的にでも逸らすための方便が必要だったのだ。
 鬼の遺体は村人によって痛めつけられ、元から無残だったそれはさらに見るに堪えられぬ残骸へと成り果てた。
 嵐から数日経ったある日、国主はこれを何者とも知れぬ外部の者へ引き渡す。そこでようやく村には平穏が戻り、村人の心に失意を残した。

 鬼の遺体を引き取った者たちは、その夜、これを村の外れで焼却した。
 嵐の後の晴れの日は遺体をすっかり乾かしており、立ち上った煙を、月だけが静かに見下ろしていた。

プロット提供あんのーん様

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