平安色絵巻-桃-
Main Story

 若草、福寿、雪割り草――。
「ああ、でもやはり桃姫さまには、さくら草もよろしいですわね」
「ええ、本当に」
「可愛らしゅうございますわぁ」
 にこにこ、にこにこ。
 まるでお面でもかぶっているように続く女房[=にょうぼう。侍女]たちの笑顔に、あたしはイライラばかり募らせていた。
 真新しい絹地、床板を埋め尽くす色の乱舞。
 女心を躍らせる、色とりどりのお衣装たちが、塗籠[=ぬりこめ。窓のない部屋]中に所狭しと並び、そればかりか部屋の隅に寄せられた衝立(ついたて)にすら立て掛けられている。こんな華やかな色に囲まれては、女房の心も浮き立ってしょうがないのだろう。
 だけど! それとこれとは、話が別だ!
「いいからアンタたち! さっさとあたしの衣をよこしなさいよ!」
「は、はい! ただいま」
 金切り声をあげると、女房たちはあたしが単だけで待たされている状況に気付いたようで、慌てて元着ていた着物を持ってきた。
 梅の花が咲き始め、冬の寒さがやわらぎ始めるこの季節――とはいえ、寒さはまだ続いているし、ましてや袿(うちぎ)をひっぺがされ、単いっちょうの姿では、肌寒さを通り越して凍死しかねない。
 女房たちに手伝わせてさっさと着物に袖を通したあたしは、これまた衝立と一緒に部屋の端っこに追い立てられた火鉢の前にどっかり座り込み、手をさすって暖をとった。
 女房たちは白けた場でどうするべきか手をこまねいている。
 それを見かね、あたしはひょいひょい、と、指先で犬を追い払うような仕草をしてみせた。
「もういいでしょう? 品評会はさっさと終わりにしなさいな。さっさと片付けなさい」
「はぁい……」
 憮然とした返事だったが、気に止めたりしない。
 凍えさせられた恨みは、簡単に晴れるものか。
「申し訳ありません、桃姫さま。わたくしが至らず――」
「別にいいわよ」
 本当に申し訳なさそうな顔で、女房を代表して謝罪してきたのは、あたし付きの女房のなかでも一番の腹心の諏訪だった。
 諏訪は、あたしが五歳くらいのときからあたしに仕えてくれていて、一番気心が知れている女房だ。美人には少し遠いけれど、長春色(ちょうあんしょく)の口紅が似合って、ふっくらとした頬から漂うほんわりとした雰囲気がひとの心を和ませる。女房仲間内の評判もいいみたい。
 ま、一番良い評判は、「癇癪持ちの三の姫の相手ができる」ってトコだろうけど。
 そんな風に長い付き合いをしている諏訪には、あたしの「別に」の意味がよく分かっている。
 許したわけじゃないし、むしろ怒っている。だけどいつまでもそれを引きずったりはしない。――そういう意味だ。
「いいから、そこさっさと片付けて。頭痛くってしょうがいないったらありゃしない」
「まあ、姫さま。そのように仰られるものではありませんわ。せっかく左近少将がお届けくださった品々ですのに」
「そこが一番嫌なのよー!!」
 ああもう! 火鉢がもうもうと燃え盛ってなきゃ、いますぐひっくり返して憂さ晴らししてやるのに!
「あの男! 父さまが甘い顔をした途端にコレよ!? やることなすこと態度がミエミエなのよ! 諏訪だってそう思うでしょ!? あの男の本当の目的なんて、どう考えたって梅姉さま目当てじゃないの!!」
「しかし左近少将さまは、桃姫さまにと、これらを――」
「だーかーらー!!」
 ふっくらとした頬っぺたの、ほんわりとした雰囲気の諏訪の一番の欠点は、このちょっとおっとりし過ぎているところだと思う。
「そこが一番腹が立つんじゃない! こんなのただのご機嫌とりでしょ!? 態度があからさまで風情がないのよ!!」
「はあ……」
「そもそも、二十歳も近い大の男が、裳着(もぎ)が終わったばっかりの十四の小娘に結婚申し込んどいて、へらへら笑ってるところが気にくわないのよ!!」
 ぷんすか腹を立てて力説しても、諏訪からの返事は心許ない。
 さっぱり分からない、諏訪の顔にはそう書いてあった。
 そりゃあ、諏訪には分からないでしょうね。生まれた身分で出世して、生まれた身分で結婚するのが世の常なんだから。左近少将が歳下のあたしに結婚申し込んでも、別に不思議じゃないし、おかしくもない。世間的には。
 あたしは摂関家の流れをくむ藤原家の三の姫。お金もあるし、身分も高い。左大臣の三番目の息子である左近少将の結婚相手としてはもってこいだ。ま、年齢がちょっと釣り合わないけど、それは本当に「少々」なことでしかない。
 だっていまの世の中、十歳差だ二十歳差だって、よくある話だし? 本人たちの同意があればさくさく進んじゃうし、合意がなくても男が夜這――ごほんっ! 押しかけて来ることだってある。お金と身分と容姿と性格と四拍子そろった妻が理想的なんだろうけど、お金のある男なら容姿優先で選んじゃっても問題ないし、まあ、その辺は臨機応変というか、大らかというか、男女の仲に水はさすなってことよね。
 で、身分やら権力がからんだ結婚だって、中にはある。というか、多い。
 特にうちは、梅姉さまが入内[=天皇の奥さんになること]なさられたものだから、姉さま経由で今帝へのツテを作りたいって公達(きんだち)がわんさか鈴なりになっているわけ。
 とりわけ、父さまの娘たちのなかで唯一の未婚であるあたしの周りは、はっきり言って五月蠅い。
 この前の正月明けに、準備も慌ただしくあたしの裳着[=もぎ。女の子の成人の儀式]が行われたのだって、求婚者の数がウナギ登りなのに拍車をかけるためなのよ。
 知ってるわよ、父さま。
 男どもを一挙に集めて、品定めしようって魂胆、ミエミエなのよ。
 勿論あたしだって、あたしの婿になるのなら、顔も身分も家柄も良いほうがいいに決まってる。だから父さまの気持ちは分かる。
 だからって、娘当人の大事な成人の儀式をダシに使う!?
「もう結婚OKよ」って公言して、公達を焦らせるなんて、いったいドコの古だぬきの手口よ!?
 さらに腹が立つのは、父さまのその姑息な目論見が成功したことよ。
 裳着が終わったっていう噂が人から人へひとしきり話題に登り終わったって頃、求婚の文[=ふみ。手紙]が日を追うごとに倍、倍に膨れ上がっちゃって、すごく大変だったんだから。
 ま、管理するのは女房の仕事だし、別に文をもらったからといって、返事を返さなきゃいけないわけでもない。というか、返しちゃったら結婚許可の一歩手前になっちゃうし、返しちゃダメなのよね。
 だからあたしは楽だった。そもそも見る気もなかった。
 父さまは、厳選したいくつかの文を読め読めって五月蠅かったけど、そんなの無視、ムシ!!
 だいたい、父さまの姑息な手口にあっさり引っかかるバカな公達なんて、興味持つ方がどうかしてるわ。
 だからぜええええぇぇんぶ、庭先のたき火にくべてやったわよ。そのほうが後腐れもないし、女房たちの手もわずらわせずに済むじゃない。
 父さまにはこってり絞られたけど、文をくれた公達に悪いなんて、これっぽっちも思ってないから。
 ――でも。肝心のアイツは、色々とちがってたのよ。
 たぶん、あいつは、父さまの策謀なんてすぐ見抜いたんだと思う。頭の回転は、悪くない男よ、うん。そもそもあんな見え透いた手口を見抜けない方がどうかしてるんだけど。
 でもある意味、手順を踏まえているというか、場数をこなしている感があるのは否めないのよね。
 あたしが全くもって相手にしてないって分かり始めたのか、先月の終わり頃から少し文が減って、父さまは焦ってた。
 そこに満を持したように登場したのが、あいつの文ってわけ。
 世間の噂なんて興味ないから、あいつがどういう人柄なのかあたしはまるで知らなかったし、父さまも疑わしげだったのをよく覚えてる。完全に射程距離外って感じで、どうしてこいつが? って顔してたわ。
 でも、婿の条件にはぴったりはまってるし、評判が悪いわけでもない。
 で、「そっちがその気なら!!」って調子で、翌日には父さまもすっかりその気になっちゃったわけ。
 そこからはもうご機嫌取り攻撃の嵐よ。
 文は毎日届くし。もう鬱陶しいくらいに。
 ときどき、あたしの好みを見抜いた調度品やらを送ってよこすし。どこからあたしの好みを聞いたんだか――って、情報源は一か所もとい一人しかいないだろうけど。
 諏訪への贈り物が届いた時が、記念すべきマジギレ一回目よ。腹心の女房まで手懐づけようとしてるのよ!? 怒る方がフツーでしょ!?
 おまけに父さまは父さまで、左近少将はどういった人柄だの、どういった顔だの、趣味はどれだかれだ、出世はここまでするだろうとか、あああ! もうっ!!!!
「うっっとおぉぉ、しいいいぃぃ!!!!」
「姫さま……」
 塗込めの部屋から自分の部屋に移ったあたしは、手に握っていた扇を折らんばかりに握り締め、御簾(みす)の向こうでしとしと降り続ける霧雨に向かって叫んだ。
「しとしとしとしと降ってくれちゃって!! 雨なら雨らしくざーざー降ればいいじゃない!!」
「姫さま、雨には雨の事情がございます」
 それに、と、諏訪は付け加える。
「こういった雨もまた趣があって良いではありませんか」
「ウザい」
「……にべもございませんわね」
 はー、やれやれ。
 わざとらしいため息を吐いて、諏訪は女房としての仕事に取り掛かった。
 あたしの座る場所を整え、脇息を配置し、火鉢を添えて、几帳を御簾の前あたりに移動させて外からあたしの姿が見えないようにした。
 家の中にいるのが女の常とはいえ、ちょっと籠り過ぎだと思うのよね。もうちょっと外に出る機会があるなら、朝市に出る女たちみたいに、あたしだって自分の婿くらい自分で見つけられるかもしれない。
 ま、残念だけどそういう環境じゃないし、こういう環境だからこそ女たちが和歌だ、絵物語だと屋敷の中でも楽しめるものが発達するんだから、文句ばっかりも言えないわよね。
「姫さま、貝合わせなどいかがですか?」
「しない」
 あたしは興味ないけど。
 ずるずると体勢を崩したあたしは、持っていた扇を投げ出し、そのまま脇息にもたれかかって、ぼんやりした。
 こういうのは嫌いじゃない。
 嫌いなのは、振り回されることだ。
 良い婿を選ぶ父さまに。出世のために結婚を望む左近少将に。貢ぎ物にはしゃぐ女房たちに。
「――姫さま、失礼いたします」
 御簾の向こうから声が響き、諏訪が動きを止めて注意をそちらに向けた。
 聞き覚えのある声だが、名前は知らない女房だった。主に、お客との取り次ぎ役を担っている。
 だけどあたしに客なんて珍しいな……。
「左近の少将さまが、こちらにお渡りになられます」
「げっ!!」
 ゾワッと背中が泡立つ。
 今しがたあたしをイライラの境地に立たせた男が、一体全体何の用だってのよ!
「よりにもよってこんな雨の日に!」
「まあ姫さま、こんな空の日でも来ていただけるなんて、女冥利に尽きますわ」
「そんな冥利いらん!!」
 ふた月は先の春の室礼[=衣替え]のために、どっさり絹地や衣装を送りつけといて、さらに本人まで送り届けるなんて。
「ちょっと諏訪! 追い返してきてよ!」
「いけません、わたくしが大殿さまに叱られてしまいますもの」
 いつもはおっとりしているくせに、なんでこういうときは強いのよ! 父さまの顔なんて立てなくていいってば!!
 なんて喚いているうちに、ひとの来る気配があって、几帳と御簾の向こうの簀子縁(すのこえん)に誰かが座り込む衣擦れの音がした。
 ふんわりと漂う香りは、初音だろうか。香りを嗅ぎわけるのはあんまり得意じゃないからよく分からないけれど、季節的にも合うし、なにより来客の品のある声には映える香りだなと思った。
「お久し振りですね、姫。しばらく姫の気配もうかがえず、寂しく思っておりました」
 相変わらずいい声だ、と思う。姿が見えない分、この声の良さでこの男は三倍くらい得しているだろう。年齢を遥かに上回って落ち着き払った口調も、声に見合っていて、いい塩梅だ。
 だけど、それとこれとは話が別。
 なにが寂しい、だ! しらじらしい!!
 だいたい来なくていいっつーの!!
 ――とか叫んでやりたいのに出来ない。姿を見せない、声を聞かせない、そういう常識さえなければ、今すぐとび蹴りのいっちょうでも喰らわせてやるのに。
「左近少将さま。本日は大層なお品を頂戴致しました由、誠に御礼申し上げまする」
 諏訪が細々と口上を垂れる。
 そんな上品に出迎えてやらんでもいい! と、ギンギン睨みつけても、諏訪はあたしの意志を汲みとったりはしない。
 まったく本当に、諏訪はときどきいい性格してる。
「姫には喜んでいただけたかな。その姿を想像するだけで私は十分満足なのだが、やはり直接お会いしたいと思ってね」
 声に微笑を忍ばせ、左近少将は機嫌をうかがってきた。
 けど、あたしはなにも答えない。諏訪も無言のままだ。
 会いたいと言われて、おいそれと返事をしてやるほど平安女子は尻軽じゃないし、それがただの社交辞令的な言葉でもやっぱり返事は出来ない。
 必然的に、場は沈黙する。
 苦笑を隠すためだろうか。御簾の向こうで扇が開かれる音がしたかと思うと、少将は沈黙が堪えた様子もなく、むしろ堂々とした態度でのたまった。
「姫は、わたしを警戒しておいでですね」
「あっっったりまえだっっっ!!!!」という怒声を、奥歯を噛んでなんとか呑みこんだ。
 この男の身分を考えれば、他にも条件の良い、それでいて年齢も見合った女は、多くはなくとも確実に居るはずだ。中務卿宮の五の姫なんかお似合いだと思う。お互いの性格はともかく。
 だがこの男は似合いの女ではなく、帝の妾(つま)を姉にもつあたしに狙いを定めた。
 そんな男に、どう心を許せと!?
 そもそも! 文付け[=手紙を送ること]の時期を見計らったり、贈り物をする相手の好みを事前に調べ上げたり、やることが手慣れ過ぎているのだ。この男の日常に、常に口説き相手がいたなによりの証し。
 こちとら、初恋もまだだてのに(ココが重要なのよ、ココが!!)こんな男と結婚させられてたまるか!!
「霧雨が――」
 心地よく響く男の声に、思わず耳が傍立った。
 霧雨? それがなに?
「降れば、少しはお心にかなうかと思ったのですが、姫は未だ、お気付きではないようだ」
「は?」
 あ、しまった。声出しちゃった。
 諏訪の視線が痛い。あたしの失態を、眼力が責め立てている。
 だけどしょうがないじゃない。左近少将がおかしなこと口走るのが悪いんだよ。
 雨が降ったからって、どうしてあたしが左近少将を気にしなきゃいけないわけ? 雨が降ろうが槍が降ろうが、晴れても曇っても、あたしがコイツを思い煩うとか絶対にあり得ない!!
「猫は朽ち果てましたか」
 ――猫?
 少将の言葉を、今度は声にはせず、口の中で反芻させた。
 猫……霧雨……猫、雨。
 何度も繰り返して、記憶を掘り起こす。そして、唐突に閃いた。
 霧雨、猫。そして名も知らない男――。
「――あああああぁぁぁぁ!?!?」
 絶叫を上げるや否や、あたしは几帳を押し倒し、御簾をかき分けて簀子縁に飛び出した。
「姫さま!?」
 諏訪の悲鳴が聞こえたが、聞かない。
 代わりに、やや端近に寄った男の姿を凝視した。
 垂纓冠(すいえいのかんむり)に、薄藤色の直衣[=のうし。身分の高い男性の社交服]をまとった男は、二十代という年齢に見合った若々しさがあった。やや人をくったかのような余裕の微笑は、この男の鼻もちならない、それでいて絵になり様になる性格と教養をそのまま示している。
 扇を持つ指は男らしく筋張っていて、肩幅も広く上背も高い。
 しかし、うちの屋敷に仕える女房たちよりも華々しく、品に溢れていた。
 これまでは御簾越し、几帳越しで、この男の顔など全く見ることはなかった。そもそも興味もなかったし。
 だけど、あたしはこの顔を知っている。
 あれは、去年の梅雨の時期――
 あの日は、真昼だというのに霧雨でそこら中が煙っていて、雨の日のおもむきがあるというよりも、やおら薄暗い一日だった。
 陰険な雰囲気のせいか、この日ばかりは屋敷中の女房たちも大人く、あたしは諏訪の目を盗んで部屋を出て、――そう、丁度この場所。この左近少将が座っている簀子縁でぼんやりしてたのよ。高欄にアゴ肘ついちゃってさ。見つかったらお説教どころじゃない、おおよそ貴族の姫らしからぬ恰好で。
 でも、そんなことしても見咎められないくらい、人の気配もまばらだったのよね。
 だから遠慮なくそこでずーっとボンヤリしてたわけ。
 そうしたら、よ。ボンヤリした視線の先、緑が生い茂る庭先で、見つけちゃったのよね。
 白いはずの体毛を、雨水の泥で汚した、痩せっぽちでみずぼらしい仔猫を。
 最初は雨宿りでもしているのかなって思ったんだけど、その猫がピクリとも動かないものだから、ついつい気になっちゃって。草履も履かず裸足のまま、袿の裾を持ち上げて近付いたんだけど、案の定、予想通りというか、仔猫は死んでいた。
 ああ、死んでいるのかって思ったら、腑に落ちたというか納得したというか。とりあえず、くるっときびすを返して部屋に戻ろう、とは思わなかった。
 死というのは穢れで、最も忌まわしく、避けるべきものだ。だから人間でも動物でも、死んだ者の体は不浄なものとして処分される。縁もゆかりもないものであったならば、それこそ打ち捨てられるのが常だ。
 この仔猫もそうなるのだろう。
 ひどく冷静な頭でこの仔猫の行く末を考えていた。
 そこに、この男が現れたのだ。
 今日と同じ直衣姿ではあったが、あの日は確か烏帽子に、織り文様が散りばめられた竜胆色の直衣だった。
『穢れが恐ろしくはないのですか?』
 あたしんちの屋敷の庭先に、知らない声がいきなり声をかけてきたんだから、そりゃあたしも驚いたわよ。しかも声音はあきらかに男物。男相手に素顔をさらすなんて、貴族の子女にあるまじき行為なんだもの。だから、びっくりしたというより、びびったって言った方が表現的には正しいかもしれないわ。
 跳ねた心の臓を抑えながら、ゆっくりそっちを仰ぐと、案の定、男がひっそりと佇んでいた。
 でもその男の顔には「貴族の姫」に対するものが一切うかがえなかったのよね。
 むしろ男の方が、扇で顔を半分隠しちゃったりして。
 それでピーンときたわけ。ああ、あたし、下働きの女童(めのわらわ)か何かに間違われてるんだなーって。
 この時のあたしはまだ裳着も済ませてなかったから、髪も衣装もお子様仕様だったのよね。だから間違われるのも仕方がないし、むしろあたしには都合が良かった。
 もしここであたしがこの屋敷の姫だって知られたら……分かるでしょ。下手すりゃお説教だし、噂なんて流された日には『変人』のレッテル貼られて肩身のせまい思いをしなきゃいけないのよ。
 だからあたしは男の誤解を解こうとは思わなかった。
『そこでなにを?』
 ちょっと小馬鹿にしたような響きがあったけど、とてもきれいな声だと素直に思う。
 癪だが、顔もいい。
 人生どんだけ得しているんだ、この男は。
『――迷ってた。埋めようか、どうしようか』
 務めて冷静に答えたのは、この男が持つ恵まれたものへの、せめてもの抵抗だった気がする。
 けれどすぐにそんなちっぽけな矜持は捨て、はっきりと告げた。
『でもやっぱりやめるよ』
『何故?』
『埋めたりしたら、この仔の存在に誰も気づかなくなっちゃうから。あたしだって、きっといつか忘れてしまう。でもこの仔を誰かが見つければ、物忌みだ、方変えだって、大騒ぎしてくれるでしょう? そうなったらきっと、もう少しは長く覚えていられるよ』
『まるで道真公ですね』
 男の口調は、あたしを試すような、揶揄するような、そんなものが含まれていた。
 考えてみれば、文付けのあと、父さまの手引きで御簾越しに会ったときからずっとそうだから、この口調はこの男の標準装備なんだろうと思われる。上から目線が妙に様になるのも、ことさら腹が立ち、気にくわないが。
『かの天神は世の栄華を極められ、転落し、身罷られた後は雷神となって京に舞い戻られた。多くの転落者は忘れ去られるのが運命(さだめ)だが、公は天満宮に祀られ神扱いだ。世も儚く散るしかない私には、少し羨ましい人生だね』
『はあ? なに言ってんの。アンタだって殿上人でしょう?』
 鼻もちならない口調はさておき、身なりから相応の身分であることは簡単に読み取れた。上殿が許される五位以上と見込んだのはほとんど勘だったが、男にはそれだけの気品があったのだ。
 だから、この男の過剰な謙遜が、あたしを苛立たせた。
『殿上人なら殿上人らしく、死ぬ寸前まで栄華を握り占めて死になさいよ。それが男の気概ってモンでしょ!』
 ぱちくり、と、男の美眉の下で目が大きく見開かれた。
 鳩が豆つぶてを食らったかのような、拍子抜けした顔だ。
 けれどその表情はにわかに崩れ――やがて必死に何かをこらえる表情へと転じた。
『――っく、くっくっく! あーっはっはっは! これは一本取られたな』
 なにが面白いんだこの男は。
 あぁん? と怪訝に睨むが、男は腹を諌めるのに必死で、あたしの眼光にはまるで気がつかない。涙目になりながらも笑い続けるなんて失礼な男だな、殴ってやろうか、などと剣呑なことを考えていると、ものすごく遠くから、霧雨の音に紛れて「桃姫さまー?」という声が聞こえた。
『やばっ』
 諏訪だ。部屋にいないことがバレたらしい。
『じゃあね! あたしもう帰るから、アンタもさっさと戻りなさい。この辺りは勝手に入ってきちゃダメなんだからね!』
 そう言い置いて、きびすを返して部屋に戻る。そして諏訪の前にひょっこり顔を出し、なんとか注意をひきつけた。だって庭先に人がいるのがバレちゃったら、またひと騒動でしょ。
 霧雨に長く打たれていたあたしは濡れネズミで、案の定諏訪にお説教をくらっちゃったんだけど、怒られながら見た庭先には誰の姿もなく、ああ帰ったんだなって思って、それっきりだった。
 せめて名前くらい聞いておけばよかったかも、なんて思ったけど、袖を振りあっただけというのもなかなか乙でいいよね。
 ――なんて、思っていたのに。
「アンタ、あのときの!?」
「やっと思い出して下さったようですね」
 あのときのまま変わらない胡散臭い笑顔を見せられた途端、あたしの怒りは頂点を吹き飛ばしてぶっちぎりになった。
「ふっざけんな! だったらなんで文付けなんか――!!」
 軽々しく庭先に出て、忌避される穢れに容易に近付く小娘に、フツー求婚したりするか!? それがいくら帝の義妹でも、正常な公達なら熨斗つけて遠慮するのが筋ってもんでしょ!? あたしが言うのも変だけど!!
「――気に入った、では、いけませんか?」
「は?」
「君が気に入ったのですよ。そうでなければわざわざ君の素性を調べ上げるような手間はかけないでしょう? 御父君に接近して、時期を見計らって文付けして、贈り物に心を砕いて、どれだけ手間がかかっていると?」
 ……そりゃ、まあ、手間はかかっているよね、うん。時間的にも金銭的にも、まあイロイロと?
 でも普通、そこまでしなくても……ああそうか、だから気に入ったって…………。
 あたしを?
「――ッ!!」
 顔が一気に紅潮した。耳たぶに熱が集中して、熱い。
 洋紅色(ようこうしょく)、火裏紅(かりこう)、赤紅梅。あらゆる赤が、あたしを染め上げる。
「なっ……なん……いや、普通、有り得ないでしょ? 貴族の姫が庭歩くとか――」
「ええ、"男の気概"などを説教する姫など、なかなかいないでしょうね」
 うわあああぁぁ。頭に血がのぼってたとはいえ、あたしってばなんて言葉を口走ったんだーっ!!
 羞恥の重みに、あたしの顔はどんどんうつむいてしまう。
 一方、左近少将は笑っているように見えた。男の本心を隠すように口許が扇で見えないから断定はできないけど、少なくとも目は笑っていた。
 ところが、その切れ長の目がスッと細くなる。まるで、あたしを捕縛するように。
 やばい。動けない。
「覚悟しておかれなさい。私は、欲しいものは手に入れる主義なのですよ」
「~~~ッッッ!!」
 これって、絶対ヤバイ。
 あたしなんか、マズいの引っかけた……かも。

参考書

* 源氏物語の雅び 平安京と王朝びと
* 定本 和の色事典
* なんて素敵にジャパネスク
* ざ・ちぇんじ

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