Atelier d'Abel -アベルの製本工房-
Main Story

 ウィリアムは飼い犬の自慢げな顔をしばし見つめた。
 ほめてほめて、と、人間の子どもならばきっとそうねだったであろう、つぶらな瞳を、引きつり凍った笑顔で見つめた。
 さんさんと注ぐ太陽の下、我が屋敷の広い庭にて。
 ウィリアムは、飼い犬がそのあぎとにがっちりと咥え、よだれにまみれた革張りの本を、茫然と見つめ続けた。

 * * *

 ややくすんだ赤――バーガンディーの色で染められた革の装丁本は、ウィリアムが幼いころ家庭教師チューターから譲られた本だった。内容はさしたるものではなく、子ども向けの一般的なラテン語の教科書となっている。オックスフォードを卒業し、父の後継ぎとして実践指導を受けているいまとなっては、絵本も同意義の、内容も浅い読み物だ。
 しかしウィリアムにとって、この本は非常に重要な本だった。
 尊敬した師から与えられたもの、新しい世界への入り口であり、小さな窓。
 ラテン語の単語を覚え、つたないながらも最初の一文が読めたときは、おさな心に感動を覚えたものだ。
 あのときのそんな初々しい気持ち――この本には、そんな童心がつまっている。
 しかし残念なことに、いまは見るに堪えないありさまとなってしまった。
 ヨダレでいささかくたびれた本文用紙は、このさい目を瞑ろう。問題は本の外側、革の装丁だ。幼いウィリアムの不作法で剥がれてしまった箔押しはさておき、犬の歯形がきっちりと残った表紙、裏表紙は正直いただけない。読む分には問題なくとも、手におさまったときの感触が妙に落ち着かないのだ。
 飼い犬にしてみれば、いつものように遊び道具のボールをとってきた感覚なのだろうが、さすがにかわいさ余って憎さ百倍というか、恨みがましいというか……。
 いやいや、そもそも本を庭に投げつけた妹のおてんばにも問題がある。……まあ、妹を怒らせる原因となった、本に夢中になっていた自分にもまた、かえりみるべき問題点はあるのだろうが……。

 そんな失敗談を通いのクラブで打ち明けると、友人のひとりが「うってつけの職人がいる」と地図を書いてくれた。

 ハムステッドの屋敷を出て南へ下ることしばらく。四本の大通りが交差するピカデリー・サーカスで進路を変えて、フリートストリートに入る。
 馬車を降りたウィリアムは、治安があまりよくないと思われる空気を察し、それに対する警戒心から、頭の上に乗せたまん丸い帽子を目深にかぶりなおした。きっちりと糊のきいたフロックコートを着込んだ自分が周囲から浮き立っているように思えるのは気のせいではない。
 共同住宅が並ぶ通りは、大通りとちがってガス灯が立つこともなく、人の気配もまばらで、独りの不安がよけいに募る。が、幸い今は真昼時。そうそう危険なめには遭わないだろう、と腹をくくり、唯一の荷物である例の本をもって、地図を頼りに歩き出した。
 初めて入る界隈なので、多少道に迷うことは覚悟していたのだが、友人が書いてくれた地図は分かりやすく、また目印も多かったことから、さほど時間をとらずにたどり着けた。
 くすみ、黄ばんだ白壁の建物。道に面した大きめの窓と、出入り口は一か所。戸口のやや上にかかげられた、控えめな大きさの看板は青銅製で、特有の錆びを帯びている。書かれている文字は『Atelier d'Abel』。正式にフランス語を学んでいるわけではないが、それでも国の近いもの同士、翻訳は容易だった。
 ――アベルの工房。
 ここでまちがいなさそうだ。
 地図を丁寧に折りたたみ直し、コートのポケットに放りこんで。
 余計なことを考えて動けなくなる前に、さっとドアを押し開け中に入る。
 とたんに顕わになった店内に、ウィリアムはしばし呆気にとられてしまった。
 よくもまあ、ここまで散らかせたものだ。自室の半分程度と思われる店舗内は、両手を広げたくらいの大きさのひとつの機械を中心に、とにかく乱雑に、しかし一方でなにか法則がありそうな様子で物が散在していた。
 部屋の奥に奥に机がひとつ、その上には鉄製の下敷きにネジで先を固定されたナタのようなもの。通りに面した窓際に、もうひとつの机。そちらの上には糸が垂らされた長方形のなにか――屋敷の隅のランドリーで見た物干し台に似ている。部屋の隅の、木の枠組みだけで作られた棚には、芯に巻きとられた革布が。そしてあらゆる場所を埋め尽くす、紙、紙、紙……。
 とにかく乱雑な混沌とした室内に、しかし肝心の店主は不在だ。
 肩すかしをくらったウィリアムはのどの奥に押し止めていた息を吐き、肩から力をぬいた。
 緊張から解き放たれてひと安心するも、さてこれからどうしたものかと、今度は思案するはめになる。このまま待ってみるか、一旦帰るか……。帰るならば書き置きでも残していくべきか。
 しかしほとんど間を置かず、奥からヌッと黒い人影が現れ、ウィリアムはぎょっと驚く羽目になった。
 小柄な老人、やや猫背。完全に白くなった髪はやや後退しており、黒いふちの丸いめがねをかけている。目尻にいくつものシワが重なる瞳は、ウィリアムと同じ深い青。同じ色のジャケットは肘の部分が栗色の布地で繕われており、労働者を思わせる出で立ちである。実際、彼は労働者階級に属する人間だ。
 身分で言えば、屋敷を持ち土地をもつウィリアム(の家)が格上にあたる。
 が、人生経験の差か、年齢の差か、老人がまとう気圧される空気に、ウィリアムは言葉を呑みこんだ。
 ふと、その老人の目がウィリアムの脇に移動する。
 あ、と言葉にはならない声で呟き、あわてて例の本を両手で差し出すと、老爺は子ども向けの本にしてはやや分厚いそれを無言で受け取り、丹念な観察の目を向けた。
 表紙、背表紙、裏表紙、表紙をめくった見返し部分、本文用紙――。ときにはシワの深い古傷のある指をのばし、そっとなぞって感触を確かめる。
「どう……でしょうか」
 眼鏡の向こうからじろりと上目づかいで見られ、ウィリアムはたじろいだ。
 気難しそうな老人だ。
 それが第一印象だったが、次に発せられた声音は予想に反しておだやかで、一音一音、英国英語クィーンズイングリッシュの感触を確かめているように、ゆったりとしていた。
「かがり糸もほつれている。一度、バラバラにしなくては……」
「直りますか!?」
 期待と喜びで声がふくらむ。
 老人は、しかし、困ったように眉根を寄せる。
「残念だが、修復は専門ではない。完全な再現はできないだろう。私の技術でできることは、装丁を新しくして本としての体裁を整えること。"reliure製本"、それが私の仕事だ」
「ルリ、ユー…ル」
 なめらかなフランス語をつたない発音でなぞったウィリアムは、しばしば老爺の手の中の本に見入った。あかぎれの目立つ、節くれだった老爺の大きな職人の手は、本にとって居心地がよさそうに見える。目の錯覚かもしれないし、ウィリアムの勘違いかもしれない。だがそう見えたのだ。
 それを確信したウィリアムは、首を振って否定した。
「元通りに、とは望みません」
 もともと直るとすらも思っていなかったのだから。
「ただ、この状態では使うに使えないものですから、直して頂ければ助かります」
 職人の返答は早く、二つ返事だった。
「五日後、また来るといい」
 その日は予定が詰まっている。昼食会のあとはスーツのフィッティングだ。けれどそんな予定はキャンセルすればいい。時間は作れる。
「分かりました」
 ウィリアムは顔を輝かせうなずいた。

 * * *

 どんな内容の本であろうとも、高価であろうとも、安価であろうとも、厚かろうが薄かろうが、アベルは同じように丁寧に取り扱う。もし本たちに物事を考える脳と、それを披露する口があれば、本たちはこぞってアベルの公平さを称えるであろう。
 またアベルにとっても、本は紙と布と羊皮紙ときに絹で構成された均一な存在であった。情報量や重量の差などあってもないようなものだし、内容の好きか嫌いかなど興味もない。本はつねに本だ。
 しかしアベルにとって、本はただの商売商品ではない。手に取れば本を通して「人間」が透けて見えるからだ。
 昼過ぎにたずねてきた青年客の本を手に取ったアベルは、テーブルに置いていた老眼鏡をかけ、本の隅々を改めて観察した。
 マーブル模様で染められた革は、パスタ・バレンシアナと呼ばれるスペイン独自の装丁だ。表に目もくらむような細かい細工の箔押しが流行しているフランス産とはちがって、こちらの箔押しは背表紙にわずかばかり。これもまたパスタ・バレンシアナの特徴だである。工業的に大量生産された品なので、価格帯はかなり安いだろう。歴史的な価値が高いわけでも、芸術的な評価がくだされたわけでもない。
 それでもあの青年は、この本を大事そうに持っていた。
「よっこら……」
 かけごえとともに重い腰を上げたアベルは、窓の近くの作業台の上で本を広げた。紙を傷つけないように、折丁※1をいっぱいに広げて、顕わになった古い綴り糸を細いナイフで切っていく。それから右手で本を押さえ、紙をつなぎとめる接着剤に格闘を挑む。強すぎず弱すぎず、手のひらに伝わってくる微妙な手ごたえに注意を払いながら、ひとまとまりの折丁を引っ張りはがすと、また次の折丁へ。一折、一折、すべてのページをはがし本をさばき切ると、かつて本であったそれは今や紙の束と表表紙、背表紙、裏表紙の、四つのパーツに分かれてしまった。
 犬に噛まれたという革表紙は痕が残ってほとんど使い物にならないが、幸い本文に痛みはない。それでも優しく一折めくってみると、そこにはアベルには馴染みの薄い文字がずらりと並んでいた。
 読めない、というのが正直なところだが、長年の経験から、紙面に行儀よく並んだ文字が簡単なラテン語であることは察せられる。おそらく子ども向けの読み物、あるいは教科書なのだろう。
 ここに――この本文用紙に書き込みの類があれば、アベルの目には勉学に励む子どもの姿が浮かび上がる。
 なければ、本を大切にする持ち主の気骨が想像される。
 あるいは単純に、あまり開かれることのない本なのかもしれない。そんな本もあるだろう。
 だがこの本は、どうやら積極的に読まれていた本のようだ。前小口※2に残る指の垢の痕跡を、アベルは無言でながめ続ける。ここまで濃く跡を残すには、何度も何度も本をめくらなくてはならない。しかしその割には、本の痛みは少ない。
 きっとあの青年はこの本を大切にしていたのだろう。
 脳裏に純朴そうな――どこか幼さの残る青年の顔がよぎった。いかにも育ちのよさそうなお坊ちゃんといった雰囲気。人生の苦労を味わうのはまだまだこれからなのだ。たとえば恋の辛苦、たとえば親友の裏切りなど――それらに遭遇したとき、彼はどんな風に変わるだろうか。立ち往生するだろう、迷うだろう。それらを経てもなお、彼はこの本を手に取るだろうか……。


 ルリユールの仕事の本分は、愛着のある愛書を「本」という存在に仕立て上げることにある。この英国からドーバーをへだてたフランスでは、書物は仮綴じの状態で販売され、それを自分で、あるいは職人に発注して「本」にする。その職人がルリユールなのだ。
 本を仕立てる際、装丁については客の注文に重きをおくが、あの青年はそれについてとくに言及しなかった。
 果たして彼はなにを望むだろう。
『元通りにとは望みません』
 ルリユールのなんたるかを知らないようであった、青年の真摯な目が、職人アベルを試しているように思えた。
 気のせいかもしれないが、アベルにはそう見えたのだ。
 窓から差し込む光が反射した眼鏡の奥で、アベルの目が細くなった。

 本文用紙を確認した終えたアベルは、遊び紙の準備にとりかかった。
 大量に散乱する紙類の中から取り出したのは、落ち着いた色合いの四枚の用紙。それを二枚重ねて二つ折りにし、二組の折丁にする。それからキャラコ※3のテープを小指の長さほど外に出るように、折り目に沿って接着剤でくっつける。紙を汚さないよう丁寧にキャラコを密着させると、白紙の不要な紙を取り出して、遊び紙の折丁のキャラコの上に、折り目と折り目をぴったり合わせて軽く貼りつけた。乾いた後はふちを本の大きさに合わせて裁断すればいい。
 できたばかりの折丁を巻頭と巻末に差し挟み、目引き※4をして、かがり※5に入る。
 別の作業台へ移動したアベルは、かがり台※6の前に立ち、本の厚さを考慮して亜麻の糸を選んだ。
 製本の工程はいくつもあるが、美しい仕上がりのためには、ひとつも疎かにはできない。
 同じように、本のかがりの手法はいくつか種類があった。本かがり、二丁ぬき綴じ、からげ綴じ、その中から本かがりを選んだアベルは、老人とは思えない――だが実に職人らしい手さばきで手早く作業を進めた。
 最初の二折を結び、糸を折丁の内側に通し、機結びで〆る。一折ずつかがれば完成だ。
 それからまた工房の中を移動し、今度は裁断機で化粧断ちをすると、作業台に戻ってカルトン※7を取り出した。厚さの異なる二種類のカルトンを組み合わせて理想的な表紙の厚さにするのだ。
 目盛を当てにする職人もいるが、アベルにそれは必要ない。経験を積んだ手が、文字通り手探りで理想を引き当てる。
 薄手のカルトンに糊を引き、厚手のカルトンを貼るあわせる。そしてプレス。あとは半日寝かせなければならない。
 ちょうど陽も陰りはじめ、ランプが必要な時間帯に差し掛かってきたころ合いだった。
 製本の作業は感覚と目が必要だ。
 ふぅーっと詰めていた息を吐き、肩から力をぬいていく。
 集中力の切れた体は辛い。肩こりと腰痛がとくに響く。眉根を寄せてしかめっ面をしたアベルは、眼鏡をはずして机に置き、目がしらをぐりぐりと指先でほぐした。
 続きは明日。
 そう決めて、彼は工房の奥へよっこらと歩を進めた。


 翌朝。
 いつも通りの朝を迎え、ひとりの食事を終えたアベルは、目を覚ましてひと言も喋らぬうちに工房に戻った。
 工房のドアの鍵を開け、新鮮な朝の空気を取り入れる。ほどなくしてドアを閉めると、作業台に置いたままだった眼鏡をとって、つるの部分を両手で持ち本を扱うよりもやや乱暴に耳にかけた。
 さて、昨日の続きだ。
 糊が乾いたボール紙をプレスから取り出し、折丁のバッキングをするべく作業台へと持っていく。手機械と耳板で中身を固定し、ハンマーで叩いて背に丸みを持たせて本の耳を出していくのだ。
 それが終わればカルトンの角を切り取る作業。背側のふち、天地の外側の角をななめに削りとる。
 次にはじめるのが、面取り。角をとった部分を紙やすりでこする作業で、こうするとやわらかい手ざわりになっていく。しかしやすりでこする前にやらなくてはならないこともある。カルトンの背をのぞく三辺から少し隙間を空けて目印をつける。それから紙やすりの出番となる。印からふちへ、つまり内側から外側へ向けて軽くこすっていく。方向を間違えば毛羽立ってしまうため気をつけなくてはならない。
 これらが終わってようやく表紙つけの作業だ。
 カルトンが折丁の耳に対して直角になっていることを確認し、でんぷんのり、新聞紙、直角に裁断したカルトン、へら、板を用意する。
 飛び出した綴じ紐をへらで広げてひらたくし、のりで密着させて、そこに三つ折りした新聞紙をのせるのだ。慎重に本を裏返し、こちらも同じように処理したら直角に裁断したカルトンを当てて表裏のカルトンの線がきちんとそろっているか確認をする。
 まちがいがなければ表紙が動かないよう注意しつつ、本の形になりつつある物を板の間に挟んで、ラ・セーヌの水の流れのように、背綴じ紐と表紙が一体になるように、プレスに入れて強く締める。
 そうしてまたしばしば寝かせてやらなくてはならない。時間にすれば丸一日。
 だがその間にやることはある。
 革ひもか絹で花ぎれを作り、表紙の革を決める。
 青年は同じ本を、とは望まなかった。それでもアベルが選んだ革は、元の表紙によく似た色の革だった。
 選んだ革を、木枠にはめ込んだガラス板の上に持っていき、革すき包丁で薄く削りとっていく。四方の縁を、背の部分を。本がうまく開閉するように、寸法通り厳密に。
 黙々と続く作業を見守るのは、工房にひそむ積年の埃たち。
 そうして今日もまた一日が終わるのだ。


 プレスして丸一日経過したものを取り出し、アベルは背固めの作業に入った。
 まず、表紙カルトンのノド側にかぶせた新聞紙をひと息にはがす。それから昨日作った花ぎれを背表紙の天地にぴったりと貼り付け、両側の耳の線にあわせてキャラコを貼る。へらを上下に動かして背にしっかり密着させるのがコツだ。次にその上から背張り紙を重ねる。はみ出た部分は慎重に切り取り、しっかりと張り着いたら、縁を先細りしたナイフで慎重に掃除する。最後にやすりをかけて、背の芯紙をかぶせてやればいい。
 この背表紙に、製本の様式や装飾に応じて背バンドを重ねていく。
 厳密に採寸されたそれらは、小麦粉がダマになるように、容易に本の一部となる。
 ここまで来たら、あとはもう少しだ。革すきが終わった表紙用の革を取り出したアベルは、一枚目の革に筆でのりをまんべんなくひろげていった。そこに、注意深く本の背表紙をあてる。親指の付け根で上から下へと背表紙をよく押し付ける。
 本特有のおだやかな曲線を描いた背にぴったりと革を沈着させたら表紙、裏表紙もシワが寄らぬよう貼り付けて、表紙、あるいは裏表紙をめくり、内側の角をしっかり仕上げていく。
 ここでようやく本が出来上がるのだ。
 四つ目の角の始末を終えたアベルは、牛骨のへらを置き、長く長くため息をついた。
 ようやく全身に血が巡ったかのように思えた。長い労働に手足はしびれているかのような、ピリピリとした感覚がある。凝り固まった肩は石を積んだように重く、腰は針をさされているように痛い。
 まだ死人のように冷たい手で、出来たばかりの本の表紙を撫でてやると、甘えるような鳴き声が幻聴としてアベルの耳に届く。
 まだ完成、とはいえない。ここから押し型やルレットで形をつけ、金箔を貼り、装飾をほどこしてようやく完成となる。
 しかしアベルはこの状態がもっとも「本」らしく、一番好きだった。
 たとえるならば春待ちの乙女だ。
 豪奢な宝石や絹のドレスをまとった姿ではない。滑らかでつややかな皮膚(かわ)をあらわにした、恥じらう乙女。一方で、したためられた文字を包む姿は、子を守ろうとする母の背中にも似ている。
 そんな慕情を新品の表紙に重ね合わせ、恋人との久方の逢瀬にも似た時間を、アベルはしばしば堪能した。

 * * *

 アベルの工房を訪れた時間は、前回よりもずっと遅い時間になってしまった。昼食会だけどうしても断れず、参加しなくてはならなかったせいだ。
 前と同じ場所に馬車を止め、今日は手ぶらで通りをぬける。地図を再度確認する必要もなくたどり着いた工房のドアを開けると、新聞タイムズを読んでいた店主は眼鏡の向こうからウィリアムの顔を確認した。
「すみません、遅くなってしまって」
 息を切らせつつ謝罪すると、老人は新聞を畳み、窓際の席からおもむろに立ち上がった。
 巧みに紙の山を避けつつ、のそり、のそりとした足取りで店内を横切り奥に向かう。
 そこから取り出されたのは、一冊の本。バーガンディーの革表紙に、タイトルが箔押しされた、生まれ変わったあの本だった。
 愛犬に噛まれる前と同じように――
 ……いや。
 もっと、むかし。ウィリアムが粗相をしたせいで、箔押しに傷を入れてしまったあのときよりもずっともっと以前の姿を取り戻した本。
「…………」
 この本が積み重ねてきたであろう積年に、ウィリアムは目を細める。
 本をもらった幼い日のウィリアム。本を授けてくれた師は、部屋に差し込む西日を背に、柔らかくほほ笑んだ。
 あのときは気づかなかったが、いまのウィリアムになら少しだけ想像できる。――あのときの先生は、ただ単純に笑っていたのではない。かつて先生自身が同じ本を譲られたときのことを回顧していたのだ。
 人の手から、誰かの手へ。
 綴られ、継承されていく、「本」という疑似姿を得た先人の思いや想いに、ウィリアムの師は、ウィリアムに本を渡したあのときに気づいて、ほほ笑んだのだ。
 いつか、自分もその思いにたどり着くことができるのだろうか――。あの、柔らかく、温かく、懐かしい瞳に――。
 ウィリアムのそんな様子になにか思うところがあったのだろう。年老いた製本職人が、怪訝そうに首を少しだけかたむけた。
「……いえ」
 きっと、本に不都合があると思った――と、思われているだろう。そんな老職人の心配を消すべく、ウィリアムは少しだけ微笑した。
「……傷が消えても、思い出は消えません。本当に、ありがとうございます」

After Word

 ルリユールとは、「出版・印刷のを担う業者と、製本業者は、互いの職分を越えてはならない」と法律で定められた国、フランスで生まれた職人です。
 日本とはちょっとちがう法律のもと、本を求めた人々は、一冊の本を作るために、出版された「仮綴じ本」を持って製本業者(職人)「ルリユール」をたずねなければなりませんでした。そうして彼らの力を借りて本はようやく私たちも知る「本」となるのです。

 副題にある-アベルの製本工房-をフランス語で正確に記載すると、Atelier de reliure d'Abel (google翻訳調べ)となるので、本作品のタイトル「アトリエ・アベル」はフランス語を採用しているものの正式な表記ではありません。
 それでもこの作品に「アトリエ・アベル」と名付けたのは、ひとえに、reliureの名前を冠するにはあまりにも未熟であると痛感したからです。
 長い歴史の重みと、伝統を継承する責任。
 「アトリエ・アベル」は、製本の過程をただ追いかけただけの作品ではありますが、これをきっかけに製本の奥深さに興味を持っていただけたら幸いです。

注釈

※1 通常8葉16頁。製本の際には順番を間違えてしまわないよう、この折丁ごとに目印となる折番号が入っている。

※2 本の背の真反対側にあたる、中身の断面。

※3 緻密に織った薄地平織り綿布。カナキンと同じ地質のものをかたく糊づけしてつや出し加工をしたもの。

※4 バッキングプレスに入れて、本を糸で綴じる穴をあける作業のこと。

※5 糸で綴じる作業のこと。これをすると本の耐久性が上がる。

※6 木製の板の左右に二本の脚を逆さ立ちさせ、そこに棒を一本橋渡ししたような台。頑張れば自作できる

※7 ボール紙、表紙ボールとも。厚くて硬い。

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* 欧羅巴人名録
* 西洋製本図鑑 ※まさに職人の本。いろんなタイプの製本方法が記載されています。
* ルリユールおじさん ※絵本なので分かりやすく製本の過程が読めます。
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