Magna Mater τρια #005

 生身で飛ぶというのは苦行だった。
 暴風から守るように抱えて飛んでもらっても、叩きつけるような風の中では呼吸がし辛い。体感温度が下がってとにかく寒いし、ゴーグルのおかげで多少マシだったとはいえ、まばたきの回数は確実に増えて涙が出た。
 クレイオスがホバリング体勢に入ったときには、心からほっとしたものだ。
「人間は鳥にはなれないね」
 地上に足を着けて深呼吸をすると、クレイオスが愉快そうな気配を漂わせる。
 わたしとしてはけっこう切実に訴えたつもりだったんだけど、彼は愉《たの》し気《げ》に「人には大地がある」と言った。

 聖堂のそばにはヘリコプターが停まっていた。たぶんクリストフォロスが乗ってきたんだろう。彼女なら免許のひとつやふたつ持っていそうだ。
 周囲は静かで、異変の影は一つも見当たらない。
 この空白の時間内にクリストフォロスが手帳を見てくれればと思ったけれど、この分だと内容は未確認のままなんだろう。
 確認を怠るなんてクリストフォロスらしくなかったけど、誓骸が卵だと正式に報告されて以降、ブリアレオスやクリストフォロスは短期決戦で事に当たっている。行動には荒が立つのも仕方がないのかもしれない。
 わたしだって、あのときもっと強く訴えていれば、こんなことにはならなかったかもしれないし……。
 ささやかな行き違いや大きな焦りが寄り集まって、傷を作ろうとしている。
 わたしにはそれが大きなものを壊してしまう予兆に思えて、怖かった。
 取り返しがつかなくなる前になんとかしなきゃ。
「タオ、私からあまり離れるな」
 聖堂へと向かう前にクレイオスが忠告した。
 ブリアレオスはさておき、誓隷が出てくればまちがいなく戦闘になる。最悪、クレイオスとブリアレオスと誓隷の、三つ巴の戦いにならないとも限らない。乱戦になれば身を守るすべを持たないわたしは真っ先に危険をこうむることになる。
 クレイオスはそんなわたしを守ろうとしてくれているのだ。自分だって片腕がないのに、優先的に守ろうとしてくれている、それがどうしようもなく嬉しくて、悔しい。わたしは非力だ。
 だけど今回は、わずかばかりにもわたしに出来ることがあった。
 クレイオスから離れるのは得策ではないけれど、被保護者の立場に甘んじたくはない。
 せっかくの申し出を、わたしは首を横に振って拒否した。
「わたしは卵を台座に戻すよ。たぶんあそこがヌミノースを吸収するのに一番良い場所なんだと思う」
「しかし……」
 良い顔をされないのは当たり前だ。
 だけどわたしも引き下がらない。
「ブリアレオスが躍起になるのは目に見えているけど、卵が戻ればイノシシの誓隷は落ち着くかもしれないでしょ? そうなったら……クレイオスとブリアレオスが話し合う時間が増えるかもしれない」
 ぎゅっと卵を両手でかき抱く。
 わたしの提案はただの楽観だ。誓隷が必ず止まってくれるなんて保証されていない。ブリアレオスが卵を守ろうとする人間《わたし》を殺さずにいてくれる根拠もない。むしr仮の研究所を焼野原にしたみたいに、問答無用で襲ってくる可能性が高い。
 それでも、どうしてもその楽観を試してみたかった。
 成功すれば、クレイオスに時間をあげられる。ブリアレオスを説得できれば当面、卵の安全は確約されるし、クレイオスだって師匠と袂《たもと》を分かつことに心を痛めずに済む。
 可能性の低い希望であっても、クレイオスのためにも、卵のためにも、試すだけ試したいと強く思った。
「感謝する」
 耳に心地よい余韻をもたらす声。
 それが聞けただけで、わたしには十分な報酬だよ。

 事態がどう動くか分からない流動的な状況下で、クレイオスは大雑把に――言い換えれば、わたしにも分かりやすいように――作戦を立ててくれた。
 目下の目標は、卵を台座に戻すこと。それからブリアレオスの説得。
 それ以外は、相手と、事の流れ次第。
 行き当たりばったりだけど、同時に、こちらの対応次第でいくらでも事態が好転する可能性があるので、最初の突入は特に慎重に行わなければならなかった。
 聖堂はかなり大きい。周囲の平原が広大すぎて、遠くから見るとぽつんと寂しそうに見えるけど、建物面積はロクス・アモエヌスのホテルくらいはある。
 外観からは二階や三階の存在を想像させるが、実際には一階だけで大きく上に吹き抜けた構造になっている。
 部屋数はわたしが知っているだけで二部屋。
 ひとつは正面玄関を入ってすぐの部屋だ。礼拝のために外部に開かれた部分だったのだろう。左右の上部にはステンドグラスがあったけど、あいにく先日の騒動で全部割れてしまった。
 ふたつめはその奥。例の、全面を誓骸に覆われたあの部屋になる。こっちはさっきの部屋よりも奥行きも深い。もっとも、壁にこびりついた分厚い誓骸が敷面積を占有してしまっているので、部屋というよりも、左右に蛇行する通路といった様相になってしまっている。そして、そのほぼ中央にあるのが卵の台座だ。
 ブリアレオスとクリストフォロスがどうやってイノシシの誓隷をおびき寄せるつもりなのかにもよるけれど、ふたりはたぶん、こちらの部屋に控えているだろう。礼拝用の部屋よりも、誓骸塊が突き出たこちらのほうが死角が多く隠れやすいからだ。
 外からここに向かう経路は二通り。
 ひとつは正面玄関。礼拝の部屋を突っ切って、誓隷に破壊された壁を越えて通路を走破し向かうルート。
 もうひとつは裏口。といっても正しい出入り口ではなく、誓隷が新しく作った大穴のことを指す。
 どちらも台座までの距離に大差はない。あえていうなら裏口のほうが近いけど、誓骸の部屋は蛇行している分、やはり距離的にはどっちもどっちだ。
 問題は、内部に入ってからどのような妨害を受けるか。
 クレイオスは短く、「容赦はないだろう」と言った。
 アルコン=ブリアレオスは、クレイオスの疑念に気づいている。だから弟子が師を追いかけてくることも想定されている。
「わたしも来るって思われているかな?」
 人間であれば眉根を寄せていたであろう雰囲気が伝わってきた。
「可能性としては三割から五割程度だ。私はきみを危険から遠ざけたいと思っている。きみを伴う行為は私の主義に反する」
 主義に反してまで連れて来てくれたのは、わたしの気持ちを優先してくれたからなんだろう。
 普段のクレイオスからは想像できない突拍子さは、この場合は吉かもしれない。
「じゃあ別行動にしない? クレイオスは正面から行って、わたしは裏から、なるべく隠れながら進むっていうのは?」
「きみの強情さはアルコンも知っている。私の主張を却下し、強引に同行することも推知《すいち》済みだ。五割の可能性を前提にされていると考え臨むべきだ」
 ブリアレオスはあらゆる可能性を考察済み、ってことか。
 難易度高いなぁ……。
「となると」
「安全性を重視し進む。そばにいて欲しい」
「……」
 思わず変な顔をしてしまった。
 不意打ちで、きゅんきゅんさせるのはやめて欲しい。心臓がもたない。しかもこんなときに……。
(いや、こんなときに悶《もだ》えるわたしのほうが不謹慎)
 悪いのは自分だと言い聞かせて心を静めた。
「アルコンは私が全力で止める。タオ、きみはクリスの動きに注意しろ。彼女は必ずどこかに居て、アルコンをサポートする」
「分かった」
 正面玄関から内部に侵入した。
 中は、ひんやりとしていた。
 昼を過ぎてもこんなに薄暗いのは、差し込む太陽の光が部屋の広さに対応していないからだ。
 見渡す限り、瓦礫やガラスが散乱していてけっこう危ない。先日ここを照らしていた携帯用のスポットライトが壊れたまま放置されていたりして、あの時の現場の混乱がそのままに感じられた。
 ブリアレオスは、いない。
 隠れられそうな大きな瓦礫もあるけれど、クレイオスが目を配らせて静かに首を振った。クリストフォロスもいないようだ。
 わたしたちは息を潜めながら奥へと進んだ。
 緊張から、心臓が早鐘を打って、呼吸が浅くなっていく。
 大丈夫か? と心配するようなクレイオスの視線を感じ、無理やり口の端を上げる。
 歩幅がちがいから、うっかり離れないように努めながら、わたしたちはとにかく慎重に進んでいった。
 一つ目の部屋は、何事もなく踏破できた。
 この前まで扉があった場所は、壁ごと破壊されて奥の部屋が丸見えになっていた。奥は一つ目の部屋とはちがって、誓骸が光を乱反射しているのでかなり明るい。
 一見《いっけん》した限りでは、やっぱりブリアレオスもクリストフォロスもいなかった。
 あの大きく左に曲がった道の先にいるのだろうか。
「伏せろ!」
 鋭いクレイオスの声。
 わたしはすぐにしゃがみこんで両手で耳を塞いだ。
 轟音と、砂煙。
 いくつかの砲撃が止むと、わたしはクレイオスの腕に抱えこまれる。
「突破する」
 そう宣言すると、クレイオスはほとんど一瞬で、通路を駆け抜けた。
 間もなく台座が見えて、卵がそこにあるのを確認して。――その向こうで、ブリアレオスが待ち構えていた。
 大気を通じて彼の怒りが伝わってくる。
 愛弟子の無理解と裏切りに対する怒りだ。
 クレイオスも師の怒りに気づいたようだけど、動揺した様子はない。とっくに覚悟していたんだろう。クレイオスは、とても穏やかに怒気を真正面から受け止めていた。
 走りながらクレイオスは腕を下ろし、床すれすれまで近づけた。わたしはブランコから飛び降りる要領で彼の手から離れ、慣性の法則に翻弄されながらもなんとか転ばずに自分の足で走り始めた。
 ブリアレオスの視線が痛い。敵意が混じった独特の鋭さがわたしの肌を刺す。
 それは間もなく、わたしの腕の中の誓骸に止まり、おじさんたちが仕掛けた小細工は一瞬にして看破されてしまった。
 ――来る!
 果たしてその予感通り、ブリアレオスはわたしを目がけて地を蹴った。台座を越えて一瞬でわたしの目の前に――
 そこにクレイオスが割り入って、ブリアレオスを力づくで止める。
 わたしは辛くもふたりの合い間を掻い潜って、なんとかその向こうに抜けることができた。
 肩越しに後ろを振り返ると、ふたりは取っ組み合いをしていた。片腕しかないクレイオスは明らかに苦戦している。それでも彼はわたしに言ってくれた通り、決してブリアレオスの注意をわたしに向けさせようとはしない。
 そのうち彼らは徐々に台座から遠ざかっていく。
 一瞬だけ、クレイオスと目が合って、わたしは物思いを振り切った。
 後ろはクレイオスに任せよう。わたしはわたしのやるべきことに集中しよう。
 台座はもうすぐそこだ。十メートルもない。
 小刻みに震える足に活を入れて、とにかく早く、早く、とばかり唱える。
 あと少し――五メートルくらいだろうか。
 四メートル――
 三メートル――
「つッ!」
 左腕に熱線が走り、その痛みに耐えかねて卵が落ちた。
 がつん、と床に叩きつけられた誓隷の卵は、けれど傷一つ付くことなく、一度跳ねて、転がり、遠ざかる。
 痛む左の二の腕を押さえながら慌てて追いかけたのだけど、卵は誰かの足にがつんと当たって、止まって、そして拾われた。
 クリストフォロスだった。
 ボディラインにぴったりと吸いつく革っぽい黒地の服を着用して、左腕に誓骸を抱き込み、左の手の平で分厚い手帳を握っている。そして右手には銃。
 あれで撃たれたんだ。
 かすり傷で済んでいるのは、クリストフォロスがそうなるように狙ってくれたからだろう。
 彼女は真っすぐとわたしを見据え、敵意をむき出しにしていた。
 ――怖い。
 こんな彼女を、今まで一度も見たことがない。たしかにわたしたちの付き合いは長くはなく、それどころかここ数日に知り合ったばかりだ。
 でもクリストフォロスはいつも凛としてて、面倒見がよくて、おじさんたちの非常識に呆れつつも協力的で――。
 そこに、わたしの知っているクリストフォロスはいなかった。
 わたしたちはもう、ほんのちょっと前の、あの気軽な関係ではいられないんだ。
 卵のことで頭がいっぱいで飛び出して来たけど、それはクリストフォロスにとってはわたしを「敵」と認識するほどのことだったんだ。
 目頭に、じわりと熱いものがこみ上げてくる。
 だってわたしにそんな覚悟はない。敵だなんて思えない。
 ――それもそうだ、だってわたしは彼女とケンカするために来たわけじゃないんだから。
 むしろ、その逆。
 わたしを冷やかに見下ろすクリストフォロスの腕の内に、その原因となったものが固定されていた。
「……手帳を……返して下さい……」
 極度の緊張のせいで、出てきた声は震えていた。
 そうか、わたし、緊張してるんだ。……そうだよね。クレイオスはブリアレオスと交戦中、わたしはクリストフォロスに銃を向けられている。いつイノシシの誓隷が出てくるとも限らない。失敗すれば、誰かが死ぬ。――緊張しないわけがない。
「――この卵はよいのですか?」
「……ッ、それも――だけ、ど……」
 クリストフォロスは不愉快そうだった。とても。
 そのせいでわたしはますます委縮する。
 それでもなんとか反論しようと声を荒げようとして、けれどふと、あることに気付いた。
 手帳も卵も、どっちも大事だ。
 特に卵は、放っておけば死んでしまうのだ。早く台座に戻すのが望ましい。
 だけど、いまこの状況でも、卵の死はある程度緩和されている――なぜならここは聖堂で、周囲は誓骸だらけだから。台座に戻せば遥かに効率良くヌミノースの吸収が促せるけど、それは結局効率の問題で、台座でなくともここは消化に良いヌミノースが空気中に豊富に含まれている。
 だから、卵の心配は、とりあえず、しなくていいんだ。
 問題は手帳のほう。
 クリストフォロスやブリアレオスは、手帳を悪用しようと――つまり、パパの意向とは逆の方向に使おうと――しているけど、実際の中身は彼女たちにとって無為も同然だ。
 だから、有効な手段と勘違いされたまま、誓隷と対峙されることが困るのだ。
 つまりわたしがいますべきことは、卵や手帳を返してもらうことじゃない。
 手帳がいかに、彼女たちにとって無能なのかを訴えること。
「手帳は……確かにパパが書いたものだけど、クリストフォロスさんたちにとっては、ただの手帳でしかありません。だから、返して――」
「……晩餐会でもそう仰っていましたが、あの場で誰がそれを信じましたか? わたしをふくめてあの三人もです。それをまた同じように繰り返されても、むしろ疑わしく思えるだけです」
「じゃあ今! 中身を見て確認すればいい! そうすればそれは、ただの、パパの――」
 パパの、何だろう? 日記? 記録? それとも贖罪……?
 どう例えれば最適なのか、言葉を探し当てられず、わたしの声は中途半端に止まってしまった。
 その空白の時間が、クリストフォロスにいらない誤解を与えてしまったのだ。
「語るに落ちていますよ」
「ちがうっ」
 そうじゃなくて!
「そんなに誓隷が大事ですか? あなたは本当にリョーイチローに似ています」
「は?」
 不意を打ったクリストフォロスの言葉は突拍子もなく、おまけに場違いで、わたしは思わず素っ頓狂な声を上げていた。
 なにそれ、やっぱり、このいかにもな秋津顔がパパと同じに見えるってこと?
「リョーイチローも誓隷を丁重に扱っていました。もし彼がこの場にいたら、あなたと同じように我が身の危険も顧みずアルコンの前に立ったのでしょう。私には、それがどうしようもなく――」
 ああ、そっちか……と、少し納得し、同時に「いや待てそんなつもりは……」と声をかけようとしたんだけど。
 それまではただ威圧的だったクリストフォロスの目がギラリと攻撃的な色を示したため、わたしは言葉を呑み込んで肺腑の奥に押し戻した。
「――理解しがたい」
 向けられた銃の撃鉄が起こされ、わたしは口の中で「げ」と呻く。
 どどどどどうしよう、煽ってしまった!?
 ああもう、どうしてこうなるの!? パパのせいだ、どう考えてもパパのせいだ! ああ、パパのバカ!
「それは! パパは、誓隷も普通の動物も、人間だって、命は命だって……大きいも小さいもなくてどれも同じだって……!」
「あなたは勘違いをしています。ブリアレオス様は誓隷をないがしろにしているわけではありません。アルコンはすべてに平等です。すべては定められた律法に則り、危険因子は排除すべきと結論を出されたのです。誓骸と……そして過去の、わずかばかりの人間も」
 ぞく……。
 背中に悪寒が走り、顔が無様に引きつった。
 法律という規制――その範囲。線引き、境界。
 道徳的な正義。人として踏み込んではならない領域。
 言葉では言い尽くせない感情がわたしの中に寄せ集まってくる。
 平等?
 律法?
 順法?
 クリストフォロスにかけるべき言葉が分からない。
 でも……。

『タオ=シャオ、考えることをやめてはいけない』

「わたしは……」
 卵を守りたい。
 卵をここに安置して見守っていたイノシシや鳥の誓隷のように――。
(……誓隷の…………あれ……)
 変だ……。
 誓隷は個別意識が強い。単独行動が基本で、群れるのは稀だ。ましてや外形の異なる誓隷――たとえばイノシシ型や、鳥型や、外見が異なる誓隷同士は、たいがい無干渉か敵対かの、どちらかの関係性に限られる。
 それなのに、イノシシの誓隷は聖域を侵した人間に荒げ怒り、鳥型の誓隷は卵を取り返そうとした。――二者は、協力関係にあった? そんなバカな。
(つまり……誓隷の関係性を凌駕する「なにか」が、この卵にはある……?)
 だったら――
 なおさら、卵を死なせては、いけない。
「――っ」
 焦りのようなものがわたしの全身を鞭打った。
 ぎゅっと唇を引き結び、意を決して誓骸の床を蹴った。
 クリストフォロスはわたしの動きに合わせて小銃の標準をすい、と動かす。
 彼女にわたしが撃てるだろうか? そう自問し、答えはあっさり出た。撃てるだろう、ブリアレオスにかしずく彼女なら。
 それはもうほとんどクリストフォロスという女性に対する信頼だった。彼女と出会ったのはほんの数日前だけど、彼女の人となりはそれなりに掴んだつもりだ。
 そして同じように、わたしはクレイオスという人柄を知っている。彼との時間はクリストフォロスとの時間よりもさらに短い。だけど彼とは〈シンクロ〉もしたし、パパから色んな話しを聞いていたので、クリストフォロス以上に理解していた。


  ◆ ◆ ◆


 クリストフォロスは黒髪の少女に対し、小さな評価を与えていた。
 偏屈な旧友に育てられたと聞いたときは陰気な気質の人間を想像したのだが、実際に会ってみると、普通の少女とあまり変わらなかった。ころころと表情を変え、普通に喋り、非常識な行動も見られない。
 世話を焼くと素直に甘えてくるから、ついつい手をかけてしまう。
 まさか、クレイオスとの〈シンクロ〉を成功させ、精神に異常をきたすことなく生還できるような脳力があるとは思わなかったが――それも、二度も。そのあたりはさすがに旧友の娘、ということなのだろう。荒削りのポテンシャルが、若さに相応して眠っているのだ。
 人材に見慣れたクリストフォロスが目をかける程度の才能。上手く育てれば頭一つ突出した能力に化けるかもしれない。
 ブリアレオスの秘書という仕事がある以上、自らが付きっきりで指導してやることはかなわないが――そもそもクリストフォロスにブリアレオスから離れるという選択肢はない――少女がペトラから去る際には、その辺りを注意したり、可能な範囲ならばそれなりの指導者を紹介してやってもいいと考えていた。

 このときまでは。

 かの地の聖堂で、クリストフォロスは、小さな評価の星を与えていた娘に銃を向けざるを得なかった。
 牽制のためだ。
 それ以上近付くな、と、害意をふくめて娘を威圧する。
 予想していたことと予想していなかったことが一度に起きたため、考える時間欲しさに黒髪の娘をいささか過剰に抑制してしまった。
 状況は、良くはない。
 クレイオスがブリアレオスを追ってくる可能性は考えていたが……。これまではひたすらブリアレオスに従順だったクレイオスが、卵の破壊を提案した際に反対する姿勢を見せたためだ。
 彼の反抗を重く受け止めたブリアレオスは、クレイオスが追ってきた場合を含めた状況下での打ち合わせをクリストフォロスと交わしていた。
 それが現実に起きただけのこと。――これはいい。
 だがまさか、この黒髪の娘まで付いてくるとは考えもしなかった。
 ここは、ある意味、戦場だ。文字通り小さな娘が来るには危険すぎる。そんな死地に無力な小娘が来るなんて……。
 ――だが、考えてみれば、娘がそれを言い出すことは当然なのだ。
 奪われた手帳。
 破壊される卵。
 普通の状況ならば、そこでクレイオスが少女を引きとめただろう。少女の身を考えればこそ、クレイオスは強く思い止まらせようとするはずだ。そして普段通りのクレイオスならば、無事に少女を説得しただろう。
 ブリアレオスもそこに思い至ったがゆえに、少女が追いかけてきた場合を考慮しなかったのだ。
 それらが覆されてしまった原因はおそらく、先ほど拾った誓骸だ。
 クリストフォロスがあの三人組から奪ってきたはずの誓骸は偽物で、黒髪の娘が持ってきたものが本物だったという情報はすでに受信《・・》している。ゆえにクリストフォロスは偽物を捨て、少女から本物を奪ったのだが……。
 なぜこの卵をここへ運ぶ必要があったかは不明だが、クレイオスを納得させ、少女がここに来ざるを得なかった理由があるにちがいない。
 極めて忌々しい。
 憎悪すら湧いてきそうだ。
 それらの悪感情は、当初、牽制としての意味合いが大きかった銃口に、さらなる悪意を乗せることになった。
 誰しも本能的に命を惜しむ。そして命を奪うかもしれない傷を恐れる。傷をつける武器に恐怖する。
 黒髪の娘も人間ならば、その本能に恐怖はあるのだ。
 クリストフォロスはその本能に訴え、少女の恐怖心を煽った。手の内の武器がいつでも少女を傷つける準備があることを見せつけ、視覚的にもあからさまに敵意をむき出しにした。
 逃げろ。
 立ち去れ。
 帰ってしまえ。
 それは、安全なところに居て欲しいという、優しさの裏返しでもあったのだが、自分の中の少女に対する甘甘しい感情は、この場ではあえて気付かなかったことにしてひたすら冷徹に務める。
 軽い脅迫と、わずかな殺気を浴びせ、この無情な世界から立ち去れと急き立てる。
 ところが少女はそれを、こんなときに限って、素直には受け取らなかった。なにをどう解釈したのか、クリストフォロスが望む方向とは真反対に意志を固め、飛び出したのだ。
「……っ」
 まさかそうくるとは思っておらず、クリストフォロスの反応はほんの少しだけ遅れた。相手が相手なら致命的になったであろう隙だが、ここにいるのは少女だけだ。その娘は今、走ることに夢中で相手を攻撃するなど考えてもいない。ましてや武器も帯びてはいない。丸腰だ。
 丸腰ゆえにクリストフォロスは一瞬だけ躊躇った。それもまた相手が相手なら、という隙間であったが、これもまた同様の理由で何事もなかった。何事もない間に、クリストフォロスは考える。
 撃つべきか? ――撃つべきだ。言葉や態度での牽制に効果がなかったなら、実力を行使すべきだ。
 どこを狙うべきか? ――命を奪うまではしなくていい。ならば足を狙ってその意志を挫いてやろう。
 標的を捉え、引き金を引く、その訓練は受けている。専門の兵士には到底及ばない時間だが、持ち前の感の良さ、つまり才能のおかげで腕前はすたれていない。
 ゆえに確実に当たる。
 邪魔さえ入らなければ。
 ひゅぅん、という風切り音が響き、クリストフォロスに近い誓骸に着弾したのは、引き金を絞ろうかというタイミングだった。
 硬い誓骸には傷一つ付いていないが、爆発の熱量と爆風、化学反応を起こした煙がクリストフォロスの行動を阻害する。
「…!」
 何者の仕業かといえば、彼しかいない。ペトラポリスのドミスヌ、クレイオス。
 まるで打ち合わせたかのようなタイミングで打ちこんできた当たり、ずっとこちらの様子を伺っていたのだろう。ブリアレオスと戦いながらそこまで気を回せるのは彼らしいといえば彼らしいし、同時に腹立たしくもある。せっかくブリアレオスを相手取っているのだから、ブリアレオスに釘づけになっていればいいのだ。強靭で豪胆なあのひとに。
 そう歯ぎしりしたところで、はたり、と思考を転換する。
 先ほどの一撃はあまりにもタイミングが良すぎた。もちろん、マーシトロンなら「良すぎる」タイミングを見計らうことくらい容易だ。彼らの知覚は、それを生み出すために大変都合が良い。あらゆる計器を内蔵しているような正確無比な計算力で、閉じかけた扉をこじ開けることもできる。
 だが、クレイオスは本当に、こちらの様子を|見て《・・》いたのだろうか?
 その疑念は、しかし答えが出されることはなく打ち切らざるを得なかった。
 がっちりと握っていたはずの、アーモンド型の誓骸の感覚が消える。
 しまった!
 視線を移せば、卵は少女に奪い取られてしまっていた。
 手帳は――まだ手に握っている。切り札は一つ残っている。
 逃げようとする少女に銃を向ける。
 こうなった以上、もう手心は加えられない。
 そのときだった。
 クリストフォロスと少女の攻防が繰り広げられている場所でも、ブリアレオスたちが戦っている場所でもなく、第三の地点にすさまじい轟音が響いた。
 鋼よりもなお硬い誓骸の壁が破壊され、穴が空き、先ほどの爆撃で立ち込めた煙が風の揺らぎで吸い込まれるように流れていく。
 クリストフォロスはその光景の中に、一体の巨大な誓隷を視る。
 イノシシの体躯をした、怒り漲る誓隷を――。


  ◆ ◆ ◆


 マーシトロンという種族は、その体構造も精神も、基本的にヒト種族と酷似している。
 だが同一の種族でない以上、相違点も少なくはない。
 中でも決定的な不一致は二つだ。
 ひとつは身体。マーシトロンの体はヒトとは異なり、無機物、鉱石を加工したもので構成され、非常に頑健な造りになている。個体差はあるが、特に頑丈なのは頭部と胸部、これはヒトと同様、その奥で生命維持が行われているためだ。
 そしてもうひとつがアジル波。マーシトロン特有の念波――専用回線といってもいい。
 ヒトがその生活において幸《さいわい》を求めるように、より良き善、高度な善《アガトス》を求める彼らは、知識《データ》を共有し、ネットワークを形成することによって、効率的にアガトスに近づこうと試みている。
 これは意識の共有という点でも非常に効率が良い。
 人類が言葉や文字といった、個別に認識の異なる媒体を用いて意識を共有しようとすると、どうしても不可避な差異が発生してしまいがちだ。
 たとえば――
 野に咲く花の色を、ある人間は赤だと思ったとしよう。だが別の人間は、やや色の濃いピンクだと認識する。それを別の場所で、しかも口頭で第三者に伝えようとすると、小さな誤解を生んでしまう。ときにその誤解は、人と人とを結ぶ関係性に大きな亀裂を入れることにもなり得る。
 だがマーシトロンはその花の情報を見たまま、感じたまま、アジル波で共有することができるため、誤解という差異が発生しない。
 むしろ、なにゆえに他者はそのような言動をとるのか、相手の経験、知識、思想をも受信して意識レベルでの共有が可能なため、より深く他者を理解することが可能になる。
 意識や思想を共有するがゆえに、弊害として、人間よりも遥かに個体の性格の変移が見られないが――
 いずれにしてもマーシトロンは、アジル波を有するがゆえに、人間とは比べものにならないほど同族間での諍いが少ないのだ。
 だがあくまでも「少ない」のであって「ない」わけではない。
 その数少ない前例に、よもや自分が名を連ねるとは――。
 クレイオスが場にそぐわない感想を思考の片隅に浮かべると、それを読み取ったらしいブリアレオスが忌々しそうな感情を発する。それを受け取り、クレイオスは軽率だった自分を戒めた。
 アジル波で思考を共有するマーシトロン同士の戦いは、なによりも速度がものをいう。攻撃の速度以上に、相手の考えを読み、攻撃の裏をかく速度だ。
 ブリアレオスとクレイオスの対立において、読みや技の繰り出しといった速度に大きなちがいはない。二者は身体的な特徴も似ており、得意とする武器も同じだった。
 しかしブリアレオスはクレイオスの嗜好をいやというほど分かっている。それはクレイオスにとっては無意識であるがため、意識立てて対策をとろうとしても間に合わない。
 クレイオスは体当たりになった相手を、一度受け止めた後、いなすように転がしてしまうのだが、それもブリアレオスにとってはクレイオスの弱点だったようだ。
 タオを逃がすため、ブリアレオスと組み合ったクレイオスが無意識に師を投げようとし――
 空いた脇腹に蹴りを入れられて、クレイオスは大きく体勢を崩さざるを得なかった。
 片腕がないというのも大きなハンデだ。
 体のバランスがとり辛く、ふとした時に腕の重さ分だけ片寄ってしまう。
 大したことではないのだが、このような緊迫した場面では、些細な気の逸れが致命的にもなり得る。
 体勢は持ち直したが、ブリアレオスがその隙を見逃すはずがなく、さらに追い打ちをかけられてクレイオスは感心せざるを得なかった。
(さすがだ)
 やはり師は師だ。自分では気付かない些細な事柄を、癖を、よく見て、応用している。
 このひとを師と仰いだ選択はまちがってはいなかった。自分に足りないものを、ブリアレオスはすべて持っている。
 高揚する気持ちの中で感じる嬉々。師匠が師たるゆえんを改めて痛感する。
 だが喜んでばかりもいられない。
 タオと交わした約束は、彼自身の強い決意と結び付いていた。
 約束を果たすために、クレイオスは師匠の一挙手一投足に注視する。そしてどのように対処すべきか考える。
 アルコン=ブリアレオスをタオに近付けてはならない。
 タオはその意志力には目を瞠るものの、身体的な能力は決して高くはなかった。ブリアレオスに捕まれば、文字通りひとひねりで終わるだろう。
 にもかかわらず、卵のために聖堂へ赴いた彼女を。
 誓隷と戦おうとしているブリアレオスとクリスの身を案じて飛び出してきた彼女を。
 彼女との約束を。
 果たさなければならない――。
「……!」
 使命感はクレイオスの集中力を底上げし、その思考力をわずかに早めた。
 辛うじてではあるが、ブリアレオスの攻撃を先読みすることがかなう。それが、クレイオスの片腕でも対応できるほどになってくると、ブリアレオスが小さな焦りをわずかにちらつかせた。
「愚行だな!」
 ブリアレオスの右腕が銃形へと変形し、クレイオスの腕のない左わき腹に向けられた。だが発砲の意志がうかがえず、クレイオスはそちらを無視する。右腕で、顔に伸びてきたブリアレオスの左腕を掴み、そのまま力比べに移行する二者。
 互いの額が触れ合うほどの距離で――ちょうど、人間と〈シンクロ〉するかのように、クレイオスはブリアレオスの碧の瞳を覗いた。
「目先の善《アガトス》に囚われてなんとする! 選択が遅れれば、犠牲は増えるばかりだ!」
 判っている。過去、それで多くの人間が誓隷によって殺されたこともあった。誓隷の狙いのひとつであった少数部族の村を援《たす》けている最中に別の村が襲われ、より多数の死者が出たのだ。これはクレイオスではなくブリアレオスの経験だが、その悔しさ、苦しみを、クレイオスは己の体験であると錯覚するほど、痛く感じられた。
 その追懐と同時に。
 少し前の、タオの声が思い出された。
『……なんでかな』
 気持ちを伝えようとすると、言葉が出てくる。
 彼女はそう心で呟いた。
 いまがまさにそうだ。アジル波で伝えればそれで済むものを、ブリアレオスはわざわざ言葉に変換したのだ。クレイオスへの怒りを、憤りを、人間への慈悲を、愛を、そして善《アガトス》への道を。
 なぜだろうか? 言葉とはマーシトロンにとっては人間との意思疎通のための手段《ツール》でしかないはずなのに。
(……妙な心地だ)
 クレイオスはタオよりも遥かに長い時間を生きており、その知識も多分に上回る。だというのに幼く弱々しい少女は、自分よりも――別のベクトルで優れているように思われた。
 泣き、笑い、感情豊かに生きること。
 理屈では証明できない「ふしぎ」を見つけること。
 自分の実力、出来ることを、限界を、分かっていながら、越えようと努力すること。この場ではつまり、ブリアレオスやクリスの妨害に遭っても、卵を戻すという自分の役目を果たそうとすること。
 タオという少女が、なぜこんなにもクレイオスの情動を突き動かすのか、よく分からない。
 だからこそ――
 クレイオスは彼女に与えられたものを大切にしたいと考えた。
「アルコン=ブリアレオス、私はあなたの教えに反しているつもりはない。ただ我々は、我々の一族の性向にあまりにも順応だった。故に私が一族の意志に反逆しているように見えるのだろう」
 ぎしっ、と、ひどい軋んだ音が響き、クレイオスは右手に強い圧迫感を感じた。
 ブリアレオスの怒りは、さらに深く影を増していく。
 感情に流されてしまえばいっそ楽であろうに、アルコンたる彼はそれを自らに許さない。
 右腕の銃筒もそのまま、ただクレイオスに向けたままだ。クレイオスを害そうとする気概は感じられるが、それが実行に移されることはない。
 ブリアレオスは一族の中でも理性による自戒がもっとも強い。その片鱗を見ることに成功したクレイオスは小さな喜びを感じつつも、だからこそ、と己の意志を再確認した。
 だからこそ負けられない。弟子は、いつか師を越えるべきだと、そう言ったのは他ならぬブリアレオスなのだから。
「おおおおおおお!」
 咆哮を上げ、クレイオスは右手を振りほどくと、ブリアレオスの銃を掴んだ。その反動で弾が一発発射されたが、それによって何者かが傷つくことはなかった。
 熱を孕んだ弾は聖堂の奥に向かい、タオよりもクリスに近い場所に着弾してクリスの動きを阻害する。
 タオはその隙にクリスから誓骸を奪った。手帳を後回しにしたのは、誓骸とちがって、手帳は中身をクリスに確認させればそれで済むからだ。手帳が本当は「何」であるかを。
 危うい綱渡りではあるがタオの奮闘は目覚ましく、また自分もブリアレオスの相手で精一杯だったため、クリスの対処はタオに任せようと決めた。
 彼女ならきっとやり遂げてくれるはずだ。
 だが事は思い通りには進まなかった。


  ◆ ◆ ◆


 クレイオスの支援を受けてなんとかクリストフォロスから誓骸を取り戻せたけど、その後に響いた轟音に続いて鳴き声が聞こえて体が強張った。
(やっぱり来たか……誓隷め)
 今回は聖堂の正面玄関方向から――クレイオスやブリアレオスがいる場所のさらに向こう側に、憎悪に揺れる誓隷の瞳が見える。わたしの頭部の上にちょうど突き出た鼻が乗っかるくらいの、大きなイノシシ型の誓隷。
 改めて視ると、やっぱり大きい。
 それにこの威圧感……。
 前回遭遇したときは逃げることで頭がいっぱいで意識しなかったけど、イノシシの誓隷は体中に怒りを纏わりつかせていた。
 いまの、ブリアレオスと一緒だ。怒りの源はちがうけど、感情エネルギーがふわりと飛び出、自重でゆっくり沈殿し、また次のエネルギーの発散に伴ってゆらりと浮上し、また、ゆるゆると沈む。昏い色をしたそのエネルギーは少しずつ量を増して、澱のように溜まり続ける。そうして闇が深まっていく。
 人間も、マーシトロンも、誓隷も、心の働きは大して違わない。違うのは――誓隷の発するエネルギーとはすなわち、ヌミノースだということ。
(あれが爆発したら……)
 場合によっては、戦況を大きく覆すだろうと予測されていた誓隷は、やはりその読み通り、ただ登場しただけで現状を大きく変えようとしていた。
「誓隷……!」
 クリストフォロスが持っていた銃をイノシシの誓隷に向ける。もちろん人間の手の中に収まるような小さな銃が、一乗《デカ》クラスの誓隷に致命傷を負わせることは稀だし、脅威にはならない以上、牽制の役にも立たない。
 それでも彼女が銃を向けたのは、ほとんど人間としての本能だったんだろう。
 だけどすぐに無力を察した彼女はすぐにもう一つの武器――パパの手帳に気付いた。
 わたしが、あっ……と、声を上げる間もなく。
 彼女は、手帳を開いた。
 そうして適当に開いたページに目を通し――
 すぅっと大きく息を吸い込んで――
 バラバラバラッと、ページをまとめてめくった。
 大きく目を見開いた彼女は、紙をめくるにつれて徐々に表情を変えていった。傍から見ていても、明らかに焦っていた。
 バラ、バララッ……。
 そうして三分の二ほどをめくったところで、彼女はがくんと膝をつく。
「――だから――言ったんです――」
 力なく呟きながら、わたしはクリストフォロスの手からそっと手帳を抜きとった。
 クリストフォロスやブリアレオスや、あの三人のおじさんたちにとって、この手帳は価値がない。無意味で、無為なのだ。
 ようやくわたしの言葉の意味を知ったクリストフォロスは、見るからに茫然としていて、まさに自失状態だった。
 遠くでブリアレオスが固まっている。
 そのさらに遠くにはイノシシの誓隷がいる。誓隷はわたしたちの様子をひと通り見渡した後、鏑矢でも放つかのように大きな声でひと鳴きした。
 走り出す誓隷。
 けしばむブリアレオスとクレイオス。
 誓隷の目的は、卵の保護と敵の排除だ。ならば卵を誓隷に返せばいいのかとも考えたけど、卵を台座に返した方が、誓隷により分かりやすく、わたしたちに害意がないことを伝えられるのではないかと考えた。わたしが誓隷に卵を返そうとして、そこをブリアレオスに上手いこと立ちまわられて、卵を壊されたりしないとも限らない。
 だからわたしは誓隷が走りだすのとほとんど同時に台座に向かって飛び出した。
 クリストフォロスとのいざこざで、台座まではかなり距離が空いている。目算でおよそ十メートル。わたしの足では、誓隷がわたしのところにたどり着くまでに追いつかれる怖れがあったけど――
 ちらりと視線を向ければ、片腕のないクレイオスが立ちはだかってくれている姿が見えた。
 そんな彼の位置、誓隷の位置、それをしっかり目に焼き付ける。
(――大丈夫)
 クレイオスは大丈夫。
 だって彼は、|視えている《・・・・・》から。


  ◆ ◆ ◆


 膝をついたクリストフォロスは自分の失態の衝撃から立ち直れずにいた。
 まさかこの大事な局面を読みちがえていたなんて……。
 あのひねくれた旧友のことだから、意味など無いと言いつつも、その実は重要な秘密を忍ばせていると思ったのに……。
(まさかあんな……)
 してやられた。
 そう考えると、自然と顔が笑っていた。
 けれどその顔もすぐに真顔に戻り、身の回りで起きていることを知覚する。低い怒号、重みに揺れる床。
 顔を上げると、怒れる誓隷が向こうから走ってくる姿が見えた。
 そう遠くない距離で、それは命の危険性も伴っているというのに、こちらに向かってくる誓隷にはやけに現実味がなく、クリストフォロスはただぼんやりと成り行きを見守る。
 そんなクリストフォロスと〈シンクロ〉しているブリアレオスは、自分の受けた衝撃に引き摺られてか、やや動きが緩慢に見えた。
 こんな日のために――いつか、ブリアレオスとともに誓隷と戦うこの瞬間のために、脳強化というリスクを背負ったはずなのに。
 脳裏に、ブリアレオスとのこれまでの出来事が流れていく。
 両親の死、ブリアレオスとの出会い。
 彼への傾倒。
 彼を助けるために受けた強化手術。
 煩わしい定期検査。
 訓練。
 銃の扱い方。
 戦場での体のさばき方。
 〈シンクロ〉による情報処理の方法。
 有用な情報の取捨選択。
 ブリアレオスの秘書になるための勉強。
 事務、雑務。
 接客、社交。
 交友関係を広めるためのパーティー。面倒な男たち。
 アルコンに名を連ねるブリアレオスの横顔――。
 その間に、真っ先に誓隷の行く道を阻んだのはクレイオスだった。俊敏に、迷いなく動く彼を見、クリストフォロスは「やはり」と確信する。
 やはりタオは、クレイオスと〈シンクロ〉しているのだ。
 一体いつから? おそらくこの場に乗り込んで来る以前だろうが――それにしても、これまでのタオからは考えられないほど、長時間に及ぶ〈シンクロ〉だ。
 〈シンクロ〉は通常、脳強化を施した〈エンハンサー〉にしか許可されない。脳強化をせず〈シンクロ〉をすると、人間の脳は情報処理に耐えきれず壊れてしまうからだ。だからマーシトロンもよっぽどの理由がない限り決められた〈エンハンサー〉以外との〈シンクロ〉は実行しない。
 だがそれは自主的な戒めであって、決して一般人が〈シンクロ〉できない、というわけではないのだ。
 脳強化を施していない人間でも、マーシトロンと〈シンクロ〉は出来る。ただしその結果は自己責任だ。自我が破綻しようが、命が脅かされようが、責任は己で背負わなければならない。
 タオはそれを承知して、あのとき聖堂でクレイオスと〈シンクロ〉した。そのときはほんの一瞬、一秒ほども自意識を保っていられなかった。
 二度目はペトラポリスの外で。そのときの〈シンクロ〉は数分に及んだそうだが、その後、彼女は回復におおよそ半日以上の時間を費やした。
 それが今は、数十分以上。
 脳強化を施していないので、その負担はクリストフォロスを大きく上回る。
 タオは、精神的な幼さはあるが、同様に知恵もある子だ。〈シンクロ〉の反動を考慮しないほどの間抜けではない。
 だというのに……彼女はいったいどれほどの決意を以ってこの聖堂に現れたのだろう。
(なんて子……)
 予想の斜めを行く少女に、クリストフォロスは舌を巻いた。


  ◆ ◆ ◆


 誓隷が現れその姿を視た途端、クレイオスの明瞭な意志が流れ込んできた。誰も傷つけさせない、誰も傷つけたくない、ブリアレオスも、クリストフォロスも、卵も誓隷も。
 その中には、当たり前だけどわたしもちゃんと入っていて、それが嬉しかった。
 〈シンクロ〉の弊害――互いの思考が入り混じってしまうというのはとても不便だ。それに〈シンクロ〉を解除したあとの反動も怖い。特に今回の〈シンクロ〉は長いから、きっと反動も大きいはず。初めてのときのように突然昏倒してしまう可能性もある。
 不安がないと言えば嘘になるけど、クレイオスとの〈シンクロ〉に恐怖はなかった。
 クレイオスの精神は清々しい。
 小さな不安に足を取られているときにそれに触れると、まず出来ることから始めよう、と前向きな気持ちになれるし、自分の度量を越えたこと――たとえばブリアレオスに逆らってクリストフォロスと敵対するような真似をすることになっても、彼の支援を心から信じることが出来る。
 ブリアレオスやクリストフォロスは卵の破壊をもくろみ、けれどそれが自力で叶わないと知って、誓隷に卵を壊させることを思いついた。役目を終えた誓隷は、パパの研究成果で斃すつもりだったのだ。
 彼にとって重要なのは卵の破壊。だけど誓骸は硬くてマーシトロンには壊せない。だからイノシシの誓隷に壊させようとしたけど、いまは状況が少し悪い。卵の傍には自失状態のクリストフォロスがいる。
 それぞれの思惑が、ほんのちょっとずつ場を狂わせて、複雑化していて。
 そんなただ中にあるからこそ、クレイオスの清涼な心はわたしを突き動かした。
 わたしにできること。
 卵を台座に戻すこと。
 クリストフォロスとのいざこざでちょっと遠くなってしまったけど、届かない距離じゃない。
 踏み出しの一歩は力強く、全力で。
 二歩目は軽やかに、素早く。
 クレイオスはその間に誓隷に十分近付き、いくつかの攻撃を加えた。それは攻撃らしからぬもので、ただ武器をふるっただけに過ぎない。なるべく傷をつけないよう、配慮しているんだ。
 三歩目――誓隷が反撃する。
 ヌミノースを凝縮したものを放ち、立ちはだかるマーシトロンに向かって放った。クレイオスはそれらを撃ち落とす。その中のひとつがブリアレオスに向かったけれど、アルコンたる彼はそれをものともしない。
 攻撃を避けるために、ブリアレオスが走る。クレイオスと少し距離をとる。
 そこで彼は追いかけてきた誓隷の一撃を破壊し、そのまま銃口をわたしに向けた。
 わたしの四歩目が、誓骸に覆われた床から離れる。
 クレイオスを中継して、ブリアレオスの覚悟がわたしに伝播する。
 五歩目。
 より強い、殺意。ペトラの町を、その人々を、息づく生活を害する誓隷、その誓隷の卵、その破壊こそ使命――それを邪魔するもの、つまりわたしへの殺意。
(頑固者め!)
 クレイオスの言葉をどうして受け入れてくれないのか。
 まるでうちのじぃじのような硬い意志に忌々しさを感じつつも、わたしの全身は恐怖におののきつつあった。
 来る。彼の武器はわたしの体を狙っている。クリストフォロスのような手心はない。一切の破壊。
 けど。
 クレイオス。
 わたしは唇を引き結んだ。
 次に踏み出したとき、わたしは近くのクリストフォロスのことを気にかけた。
 彼女が巻き込まれたらどうしよう?
 けれどその不安は即座に払拭された。ブリアレオスは器用に、彼女を巻き込まないように標準を合わせている。わたしを殺そうとしているのにクリストフォロスのことは最後まで忘れない、その優しさはどことなくクレイオスに似ていて、頼もしい。
 クリストフォロス、あなたが信頼しているひとは、信念が揺るがなくて、カッコイイね。
 そう考えると、万が一このまま殺されてしまっても、ブリアレオスを恨む気にはなれなさそうで、妙に安心してしまった。むしろこれはちょっとした幸運かもしれない。その辺のごろつきに通り魔よろしく殺されてしまうのは悲劇だが、ブリアレオスのような気概を備えたひとに殺されることは、意義のある死のように思えたからだ。
 でももちろん、その前にやれることはやり通すつもりだ。
 世界が動き出す、目まぐるしく時間を取り戻していく中で、わたしはとにかく必死に走った。
 クレイオスに与えられた一瞬の猶予の中で、彼の躊躇いが伝わってきた。出会い、師事を乞い、了承されたこと、その後の日々。他に方法はないのかと自問し、却下した。ブリアレオスは生半可な手段では、もう止まらない。
 そうしてクレイオスの意志は絞られる。残った腕が剣へと姿を変えて、ブリアレオスの胸部を背後から貫いた。
 ブリアレオスは火花を散らしながら片膝をつき、片腕をついた。
 そして弟子を肩越しに見遣り、自由がきく片腕を伸ばした。三発、四発、五発。クレイオスのそれとはまるで破壊力の異なる砲撃が起こり、クレイオスの肩をかすめて、さらに背後へと吸い込まれた。
 誓隷が悲鳴を上げる。
 誓骸はおそろしく硬いけど、誓隷はそうではない。
 命を失って、その肉体は誓骸へと変異して、硬化するのだ。
 その過程で大量のヌミノースが発散される。
 ましてや一乗《デカ》クラスだった誓隷だ。内包していたヌミノースの量は大量だった。
 わたしが台座に卵を戻せたとき。
 一帯は星空の真ん中のように輝いていた。
 ブリアレオスが動きを止める。だけど最後の意地が働いたのか、彼がそれ以上倒れることはなかった。
 表情のないマーシトロン。
 満足そうに見えたのは、わたしの希望的な観測かな。
 散っていくヌミノースは、重力や引力に反してふわりふわりと浮かんでいく。踊るように回って、広がって、そして一定のところで雨のように落ちてきた。
 茫然としたままのクリストフォロスににも、腕を下ろしたクレイオスにも、砂粒よりも細かいヌミノースは降り注ぐ。
 わたしにもそして卵にも。
 そのうち、卵の内部が強い光を発するようになった。
「え、なに――」
 言い終わらないうちに、光はひときわ強くなって、卵が形を変えた。
 きゃん、きゃんっ。
 台座の上に現れたそれは、四つ足で、長い体毛に覆われていて、尻尾があり、耳があり、大きな目があって、鼻がやや高い。
「きゃんっ」
「わわわわわ!」
 ぴょーんと飛んできたそれに押し倒されたわたしは、どしーんと情けない尻もちをついた。
 どこからどう見てもそれは毛の長い小型犬だった。

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