Magna Mater τρια #004

 ……ォ……ン……。

 家中に雷のような怒声が響いた。
 それから食器の割れる甲高い音。
 ああ、またパパが、じぃじに怒られているんだ。
 じぃじとパパは、母屋と離れと、それぞれ別の所に住んでいるのに、何日かに一度はああやって思い出したようにけんかを始める。
 けんかといっても、いつもじぃじが一方的にパパを責め立てるだけで、パパが何かを言い返すことは全くないんだけど。耐え忍んでいるのか聞き流しているのか、息を潜めて物陰に隠れているわたしには、パパの様子は分からなかった。そして嵐のような時間が去るまで、パパが口を開くこともなかった。
 ふたりの仲裁をしたことは、ない。じぃじの苛烈な性格は、子どものわたしには荷が勝ちすぎた。二人の間に割り入るだけでも大きな勇気が必要になる。
 それにパパは――誓隷にばかりかまけているパパは、娘のわたしのことも二の次で、決して父親らしいとは言えなかった。
 わたしが生まれたときも、じぃじはパパに対して「自分で責任を持て、儂は知らん」と言い放ったにも関わらず、誓隷の看病に追われて赤ん坊を育児放棄したらしい。見かねたじぃじが手を差し伸べてくれたそうだけど、それを機にパパの悪癖は度を増して悪化した。以降、金銭的な面でも、わたしを養ってくれたのはじぃじだ。
 だから立場的にパパを擁護するわけにはいかなかったし、心情的にもしたいとは思わなかった。
 かといって、すぐに怒るじぃじが好きだったわけでもない。
 好きか嫌いか、それだけで区別するなら、パパの方が好きだ。
 パパは優しい。誓隷さえ関わらなければ、パパがわたしを忘れることはない。じぃじとちがって怒ったことは一度もないし、勉強で分からないことがあれば学校の先生以上に分かりやすく丁寧に教えてくれる。誓隷さえ関わらなければ。
 ――ふと顔をあげると、パパの背中があった。
 ケンカは終わったのだろうか。
 小さな仔ギツネがいて、パパは仔ギツネの体に巻き付けた包帯をしゅるしゅると解《ほど》いている。ただのキツネじゃない。誓隷だ。
 きっと傷が完治したので村の外の森に還そうとしているんだろう。
 仔ギツネは状況をよく分かっていないのか、確認するように何度もパパを振り返った。
 そのたびにパパは手を振って、安心させて、行く先にある森へと進むよう促した。
 パパの顔は見えない。だけど分かる。きっと笑ってる、誰よりも優しく。
 仔ギツネはその微笑に送られて森へと駆けていく。
 わたしは何度、この背中を見ただろう。
 傷を負った誓隷を抱き、癒し、あるべき場所へと還す、この背中を。
 いますぐにでも駆け寄って、その隣に立ちたかったけど、わたしはいつだって必要以上にパパに近づこうとはしなかった。
 わたしたち親子の間には、どうしようもない深い溝があった。

『小后嗣《シャオホゥスィ》』

 肩越しに、パパがわたしを呼んだ。田尾家の小さき正統な後継者、と、パパはいつもわたしに呼びかける。
 顔を上げると、けれどパパはもうそこにはいなかった。かわりに森へ帰ったはずの仔ギツネがちょこんといた。
 わたしを呼んだのはパパではなかったのだろうか。すばやく左右に視線を走らせたけど他に人影はない。パパがいたはずの場所にいる小動物は、まっすぐこちらを見ている。なにかを訴えかけられているような気がして、わたしもじいっと見つめ返した。お互いに言葉はない。
 しばらく見ていると、小動物に違和感を覚えた。キツネだと思っていた輪郭が、もう少し丸みを帯びているように見えたのだ。耳もキツネのようにぴんと尖ってはいない。尻尾はふんわりとしている。どちらかというとイヌっぽい。
 見まちがいかどうかを確かめる暇もなく、くうん、と鳴き声が耳に届いた。明らかにキツネではなかった。やっぱりイヌらしい。
 鳴き声は、すがるような痛烈な響きがある。耳朶《じだ》に触れるころには、かすれて聞こえ辛いほど弱々しく、わたしは眉をきゅっと寄せた。
 四足《よつあし》をそろえて座るイヌの周囲に、湯気のように青い光が立ち上った。ヌミノースだ。でもそれは白っぽくて、いまにも消えてしまいそうなほど濃度が落ちている。
 よくよく目を凝らすと、四肢《しし》の先端はガラスのように固まっていて、誓骸化していた。青白い誓骸――

 ――まさか、


 ◇ ◇ ◇


 目が覚めた。
 見覚えのある天井は、ロクス・アモエヌスのホテルのわたしの部屋だった。
 静かな室内に、わたしの荒い息遣いだけが続く。
 カーテンの隙間から差しこんだ白い光が、室内の一部を眩しくしている。
 元気な鳥の声。
 上肢を起こして時計を確認すると、ちょうど朝を迎える時間だった。
 ペトラポリスを襲撃しようとしていた誓隷が駆逐されて、町に戻ったのは夕方。
 〈シンクロ〉で疲弊したわたしは、蜜に群がる蜂のようなおじさんたちを適当にかわし、心配してくれるクリストフォロスに相槌を打って、クレイオスへの挨拶もそこそこに、ホテルの部屋に戻ってベッドにもぐりこんだ。
 あれからだいたい半日くらい経ったということか。……いや、いままでの経験上、数日過ぎていたとしてもおかしくはない。
 〈シンクロ〉すると、単純に、普段、目や鼻や肌から得ている様々な外的情報を二倍摂取することになるから、脳への負荷が大きくなる。加えてあの時のわたしたちは、過去の記憶、経験もいくつか共有した。……見てしまった。
 クレイオスが戦いながらも〈回線〉に流れ込む情報を制御してくれてたとはいえ、途中――特に、クレイオスが鳥型の誓隷に標準を合わせる場面では、立っているのも辛いほど脳を酷使した。だから激しい反動があっても不思議じゃない。
 むしろ繋がったあと、あれだけ意識を保てていただけでも立派なもので……。
 わたしの脳も少しは〈シンクロ〉に慣れたんだろうか。その自覚――というか、感覚は、多少なりとあるけど……情報を処理する速度の上げ方を覚えたというか、情報の整理の仕方を覚えたというか。
「…………」
 わたしは目を細め、自分の右手を開き、その手の平をじっと見た。
 クレイオスと接続《リンク》する瞬間の感覚を思い出す。
 指先にまで血が巡り、熱が行き届くような感覚。
 今回は、前回の聖堂のときとはちがって、接続した直後にもちゃんと意識を保っていられたから、〈シンクロ〉している間の不思議な感覚はしっかり覚えていた。
 自分の意志と、遠いところにあるもう一つの意志。
 それぞれが、それぞれで己の行動を判断しているにも関わらず、遠いところにある意志を自分の意志だと勘違いしてしまいそうになる距離感。
 少し思考を巡らせただけで、知らないはずのことを知っているとに錯覚してしまったり。
 クレイオスが腕を折られたときは、わたしの動揺がクレイオスに通じてしまったり……。
 すべては頭の中の出来事なんだけど、その結果は必ずしも思考だけで済むとは限らない。クレイオスがわたしの動揺に引きずられて逃げそびれたように、影響は良くも悪くもお互いに及ぶ。
 案外、パパの夢なんかを見たのはそのせいかもしれない。クレイオスはパパの友だちだし、パパにとってはクレイオスは唯一の理解者。その繋がりが、わたしの古い記憶を刺激して、夢として再現されたのだとしたら。
 〈シンクロ〉は、聞いていた以上に厄介な状態なのかもしれない。
 そのとき部屋のドアが開いて、何者かが入ってくる音を聞きつけた。
 上半身を硬くして警戒していると、現れたのはクリストフォロスだった。
「あっ……」
 起きているわたしを見た彼女は一瞬慌てた。だけどすぐに笑顔を見せた。
 繕ったような表情の変化が少し気になったけど、取り立てておかしい動作じゃない。よっぽど驚かせてしまったんだろう。
「気付いていらっしゃいましたか。クレイオスから〈シンクロ〉をしたと聞いたので、てっきり――」
 てっきり前回のように気を失っていると思わせてしまったらしい。
「ホテルに戻られたとき顔色が少し悪いようでしたが、私の杞憂だったようです」
「すみません、心配かけてばっかりですね」
「いいえ、それよりも体に違和感はありませんか? 動くことになにか支障は?」
「いえ」
 むしろ頭の回転に限っては、すこぶる調子が良い。
 クレイオスの思考力がまだ少し残っているのかもしれない。
「着替えを持ってきます。その間にシャワーか、温泉に入られてはどうでしょう」
 クリストフォロスの提案にわたしは頷いた。
 昨日は戻ってそのまま寝てしまったから、どうせなら温泉に入りたい。
 クリストフォロスに着替えを直接へ運んで欲しいと頼んで部屋を出た。
 温泉はロクス・アモエヌスの中でも見晴らしのいい場所にあり、露天風呂になっていた。覗き見られないよう周囲に囲いを巡らせつつも、ペトラポリスが一望できるように造りこまれている。
 青空と、オレンジの屋根、白壁の町並み。
 温泉に浸かりながら、わたしは長いことその光景を眺め、なにを考えるわけでもなく、ひたすらぼんやりし続けた。
 髪も体も洗ってさっぱりして脱衣所に戻ると、温泉に入る前まではなかった着替えが目に止まった。
 目立つピンクのタンクトップにレモンイエローの薄いカットソー。それから黒のレギンス。
 昨日よりもさらに動きやすいそれを着て温泉を出ると、廊下でクリストフォロスが待っていた。
「部屋に朝食を運ばせています。そちらが終わられましたら、ご連絡ください。アルコン=ブリアレオスがお会いしたいそうです」
 なぜ、と首をかしげる。
 わたしはパパの代理だけど、呼び寄せたのはクレイオスで、この都市国家《ポリス》の管理者ではない。会いたいと思われる理由が分からない。
 話が見えずに困っているわたしに対して、クリストフォロスは低姿勢で応じた。
「内容は直接、聞いて下さい」

 招待した人物がいずれであっても、わたしがペトラポリスの公費でお世話になっている事実は変わらない。だからひと言なりと挨拶はしておくべきだろうと考え、クリストフォロスに従った。
 彼女の案内でホテルを出て、ロクス・アモエヌスを下って行く。それほど遠くはない、丘の中腹の大きな建物が目的の場所だ。
 中はホテル以上に天井が高くて飾り気がなかった。壁紙は柄《がら》すら入ってなくて、天井の明かりも無装飾だった。ただとにかく広い。横幅もだ。マーシトロンが出入りするのだから彼らの大きさに合わせて造られているんだろう。
 通された部屋も同じ、どこかの競技場のように広くて、なにもなかった。最奥で待ち構えているのがアルコン=ブリアレオスだ。彼は石造りの椅子にゆったりと座っていた。
 深い色合いながらも爛々と光る緑の瞳は、翡翠《ひすい》や翠玉《すいぎょく》よりも灰礬柘榴石《はいばんざくろいし》に近かった。
 わたしはその色から目を離せず、彼との距離を詰めた。
「お連れしました」
 クリストフォロスが壁際に身を寄せる。
 一対一で対峙して、気づいたことがひとつ。肉体的な疲労がないマーシトロンが椅子に座るのは、人間との目線を少しでも合わせるための配慮なのだろう。
「ブリアレオスだ」
「田尾さやか、です」
「まずはクレイオスの招致に応じてくれて礼を言う。遠いところからはるばる、ご苦労だった」
「いえ……」
 豪然な態度に見合うだけの低い声。思わずこちらの腰が低くなってしまう貫禄、風格……。
 アルコン=ブリアレオスは、いかにもマーシトロンらしい鷹揚さと剛健さを兼ね備えていて、人間が持ちえない威圧感を出していた。
 クレイオスが彼を尊敬する気持ちが分かる。クリストフォロスがうっとりと彼を語るわけだ。この思わずひれ伏したくなるような存在感は圧倒的だ。体の芯から畏敬が湧いてくる。
 同じマーシトロンでもクレイオスとは全然ちがう。クレイオスはもっと親しみやすい。町の広場では、彼の周囲にはたくさんの人が集まっていた。
 その分、アルコン=ブリアレオスには尊敬と畏怖が集中するのだろう。
 秋津の住人たちが、誓隷を恐れ、敬うのと同じく。
 ペトラポリスの人々は、都市を平和に統治する彼に頭《こうべ》を垂れる。
 一方で、クレイオスがブリアレオスに対して抱いていた懐疑心にも納得した。なぜクレイオスが「犠牲量」にこだわっていたのかも。
 町の外の遺跡で誓隷を容赦なく粉微塵《こなみじん》にした彼なら、生命ひとつひとつの重さに向き合うのではなく、質量で判断するにちがいない。
 ――悪いひと、とは思えない。
 命は、どれかひとつが重かったり、大きかったりするものではない。ひとつはひとつであるとするならば、総合的により多いほうを選ぶのは平等であると言える。
 誓隷ひとつの命よりも、町の住人全員分の命。
 でも残念ながら人間は主観で生きていて、物事の優先順位は相対的だ。
 アルコン=ブリアレオスも、クリストフォロスも、たぶんペトラポリスの人々も、まったく意に介していない――むしろ邪魔だと思っている誓隷の命ひとつ分は、わたしにとっては隣に住む友人くらいの感覚で……。
 パパや、三人のおじさんたちなら分かってくれるようなこの感覚を〈シンクロ〉で共有してしまったせいで、クレイオスの長年の疑心は決定打を得てしまった。
 言いようのない、申し訳なさを覚える。
 マーシトロンの特殊な能力、アジル波で、アルコン=ブリアレオスは弟子の複雑な胸中をすでに察しているのだろうか。知らぬふりをしているだけなのだろうか。
 それともクレイオスはいまだに尊敬の念を払いきれない師に対して、疑惑の目を隠しおおせているのだろうか。
「わざわざ来てもらったのは理由がある。君が父君から預かった手帳を渡してもらいたい」
 わたしは彼の言い回しを慎重に反芻《はんすう》した。
 渡して、と彼は言った。貸して、ではない。
「……理由を聞いてもいいですか?」
「誓隷を確実に倒すために」
 明朗《めいろう》な返事が間髪入れず返ってきた。
「君はソージローの孫だと聞いた。彼は狩人だ。孫の君も誓隷の危険性は十二分に知っているだろう。それがいま、我が都市国家《ポリス》の人々を脅かし、日常を奪っている。速やかに排除しなくてはならない」
 アルコン=ブリアレオスがじぃじを知っていることに驚いたけど、それ以上に、やっぱりという確信が大きく印象に残った。
 ひとつの誓隷の命か、大勢の人間の生活か。彼はすでに答えを出しているのだ。
「……」
 秋津において狩人とは、誓隷を狩る専門家のことをいう。じぃじは優秀で、一目置かれている。ブリアレオスがじぃじを知っていることには驚いたけれど、たぶんそれくらい有名ではある。
 そして同じくらいパパも有名だ。パパはじぃじとちがって誓隷を説得する。神祇官《じんぎかん》、と呼ばれる。
 わたしは狩人《じぃじ》の孫だけど、同時に、神祇官《パパ》の娘でもある。
 そもそも。
 ……そもそも、彼は一番大事なことを忘れている。
「何度も言いましたけど、手帳は、ただの手帳です。たしかに父から受け取ったものですけど、望まれているような力は持っていません」
 灰礬柘榴石《はいばんざくろいし》の瞳が静かにわたしに向けられた。
 わたしは目が逸らせず、真正面から向き合った。
「どうしても?」
 再度の問いかけに眉を寄せる。話が通じていない。反論してもいいけれど、言葉を重ねれば重ねるだけ、わたしが嘘をついていると疑われるだけかもしれない。そう考えると、唇はぜったいに動かなかった。
 沈黙の分だけにらみ合いは続いて、やがてアルコン=ブリアレオスは諦めた。
「……ソージローは頑固な男だ」
 知っている。最近のじぃじは、年齢のせいか特にひどい。
「リョーイチローも、頑固であった」
 パパとじぃじは、顔も性格も思想も真反対だ。なのにあの頑固さを見つけるたびに、やっぱり親子なんだなと感じる。
 もちろんわたしも。わたしの中の頑固さも同じだ。
「残念だ。とても」
 重々しいため息を聞いて、わたしは肩の力をぬいた。
 理解してもらったとは思えない。だけどこれでなにか別の方法を考えてもらえるだろう。娘としては、パパの研鑽《けんさん》がパパの意思とは逆方向に利用されるのは、あまり気持ちが良くないし。
 わたしはぺこりと頭を下げて、早々に彼に背中を向けた。
 長居は無用だ。足早にドアに向かったところで大事なことを思い出した。
「あの……、持ち帰った、あの誓骸はどこにあるんですか?」
「あの三人が保管しています」
「ありがとうございます」
 クリストフォロスにお礼を言って、今度こそ部屋を出る。
 息を吐いて一歩二歩踏み出して、三人がどこにいるのか、肝心なことを聞きそびれたことに気づいた。けど戻る気にはなれない。
 だからわたしは知らない。
「仕方があるまい」
「――はい」
 閉じた扉の向こうで、そんなやりとりがされていたことを。

 幸い、建物を出たところで職員らしき人をつかまえられた。
 例の三人がいるのは、アルコン=ブリアレオスの執務館から、もう少しくだったコンクリート造りの屋舎だった。
 中は人の気配がなく、しんとしていて、かなり寒々しい。消音効果のある合成樹脂の廊下を進むこと少し、明かりが点いている部屋を見つける。
 引き戸には窓がはめこまれていて、室内が見えた。おじさんが二人、それから知らない人が四人。七三分けのおじさんがいない。
 ホテルのわたしの部屋をひとつなぎにしたように広い内部は、たくさんの機械が持ちこまれて、ホログラフィ画面には文字と数字が次々に吐き出されていた。
 引き戸を開くと一斉に注目されたけど、みんなすぐに手元に視線を戻す。この感じがパパと似ていて、わたしは思わず苦笑していた。
「どうした、なにか用か」
 声をかけてくれたのは眼鏡さんだった。
「えっと、あの誓骸は? アーモンドの形をした……」
「それなら向こうだ」
 顎《あご》で示されたのは、機械で死角になっているところだった。
 透明な匂いガラスのケースをかぶせて誓骸が保管されている。まるで閉じこめるみたいに。
「ちょっと、色が薄くなっていない?」
「そうか?」
 気のせいかもしれない。でも初めて見たときよりも、ずっと白っぽく見えた。
「触っていい?」
「やめておけ」
 眼鏡さんは眉根を寄せた。
「そいつは誓骸じゃなくて卵だ。誓隷のな。なにが起こるか分からんから、あまりうかつに近づくな」
 そういえば町に向かっていたときに、そんな話をしていたっけ……。あとで詳しく報告するとかなんとか。
「あのひと……えっと、ブリアレオスさんには言ったんですか?」
「ついさっき報告書を持って行った」
 七三分けのおじさんがいないのは、そういうことらしい。
 ロクス・アモエヌスは大きな公園みたいなもので、あちこちに建物が点在している。舗装された道は網のように張り巡らされていて、芝生の上も歩いて構わない。七三分けのおじさんとすれ違わなかったのは、選んだ道が異なっていたからだろう。
「それで、お前はこれを見に来ただけか?」
「うん、なんとなく気になって……」
「Premonition」後ろから近づいてきたのは小太りさんだった。「第六感、予感といったものは、人間が空気中のヌミノースと感応しているせいだという説がある。お前は〈シンクロ〉できる程度に脳は働いておるからして、もしかしたらヌミノースを読み取ったのかもしれんの」
 秋津ではこういうのを〈蟲《むし》のしらせ〉という。でもこの場合は〈ヌミノースのしらせ〉になるんだろうか。
 わたしの耳の奥で犬の鳴き声がした。――ような気がした。
 起きる直前に見た夢。
「……あれはきみだったの?」
 もちろん、いらえはなかった。
 小太りさんに予感だ、第六感だと言われたせいか、もやもやした気持ちに引っ張られて、わたしはしばらくその場に居座った。
 ヌミノースの発現があるわけもなく、アーモンドの結晶はケースの中でじっとしている。
 そのうち七三分けさんが戻ってきた。
「どうだった?」
 小太りさんの質問に、七三分けさんは肩をすくめた。
「どうにも。反応はいまいちだった」
 それはそうだろう。おじさんたちが考えるハイテンションのアルコン=ブリアレオスなんて想像もつかない。見たくない。それに彼は誓隷に否定的な人物だ。ヌミノースの神秘に感動するよりも、邪魔な誓隷が一匹増えたとしか思わないだろう。
 お昼が近くなってきたこともあって、わたしは仮研究所をあとにした。ゆるやかな坂を上ってホテルに向かい、フロントデスクで鍵を受け取って部屋に戻る。
 中に入って溜息ひとつ。
 十分に眠らせてもらって眠気はないけれど、妙な疲労を感じていた。アルコン=ブリアレオスと真正面から対峙した気疲れだろう。
 座りたくて応接間に赴き、ふと、違和感を覚えて足を止める。
 荷物が、倒れていた。
 秋津から持ってきた、わたしのリュックサック。応接間のテーブルに置かれたままの――。
 倒れていただけなんだから、別におかしなことではない。動かない物でも、バランスを崩せば倒れることもある。中の荷物がちょっと動いて倒れてしまったのかもしれないけれど……。
 だけどわたしは、荷物に触っていない。
 温泉に入る前、ちらりと見た荷物はちょこんと立っていた。――リュックサックが立つ、という表現はいささか妙だけど、あえて言うならそんな様子だった。
 そこから一体何があって、荷物はバランスを崩したんだろう? どうして倒れてしまったんだろう? その原因は?
「…………」
 違和感というか、不安というか。
 そんなもやもやとした感情に急き立てられて、わたしは足の向きを変えた。
 リュックサックに手を伸ばして、中身を確認。
 わたしは眉を顰めた。
「……手帳がない」
 どうして?
 いつから?
 故郷を出て――ペトラポリスに到着して――聖堂で誓隷に襲われて――そのときまではわたしがリュックを背負ってて、手帳も確かに入っていた。それは間違いない。
 じゃあその先はどうしたっけ?
 ――そうだ、気絶から目覚めて、この部屋に案内されて、わたしはそのとき一度だけリュックの中身を確認した。誓隷から逃げるとき、壊れたりしていないか気になって……。
 そのときは、ちゃんと手帳はあった。
 その後は晩餐会があって。
 手帳のことをみんなに話した。
 朝になったら、クリストフォロスと一緒に町に出て。
 広場でクレイオスと会って……。
 今度は別の誓隷が町を襲おうとしてきたから、〈シンクロ〉して、戦った。
 その後はまた気絶したように寝てたから……。
 紛失の機会はいくらでもあった。
 ただし記憶のどこを探しても、リュックサックからわたしが持ち出した事実はない。
 つまり誰かに盗まれたんだ。
 管理の杜撰《ずさん》さはもちろん、自分の無防備さを恨む。
(クリストフォロスに忠告されたのに……)
 苦々しさを噛み潰しながら、わたしは頭を巡らせた。
 犯人はいつだって手帳を盗むことができた。
 じゃあ、その手段は?
 部屋には鍵がかかっている。自動錠だから、かけ忘れたりしない。侵入は難しかったはずだ。
 鍵はわたしが持っている。外に出かけたときは、ちゃんとフロントデスクに預けた。
 だったら、清掃のための予備、全室共有のマスターキーなんかはどうだろう。
 でもそれを使って侵入されたということは、犯人はホテルの従業員の可能性が高くなる。要人が滞在するようなホテルに不祥事を起こすような人間がいるだろうか? ペトラの信用問題に関わるし、ホテル側だってその辺りの警戒は怠っていないはず。従業員の身元調査はもちろん、出入り業者だってちゃんとチェックされているはずで……。
 でも、スタッフの人間性と警備体制は、また別の次元の問題だよね。
 ホテル従業員に採用されるくらい問題ない人格者が、突発的に、パパの手帳を盗まなければならなくなるような事情に見舞われた――としたら。
 たとえば、お金。
 クレイオスの話によれば、人によってはパパの研究はとても美味しいらしいから、多額のお金を積んででも手に入れようと考える人がいるかもしれない。その人に売り渡せば……と考えたホテル従業員が犯行に及ぶ――実にありきたりであり得そうな仮説だ。
 問題は、パパの研究を欲しがるような知り合いがいる人が、パパの手帳の存在を知り得たという、偶発的な偶然が起こり得るかどうかで……。
 ――あのとき、あの晩餐会の席に、ホテルの従業員は確かにいた。
 小太りさんがワインを次々と追加してたから、ひっきりなしに人が動いていたし、配膳のときも出入りはあった。壁際で控えている人もいて、その中には……
(……あれ、そういえばあのとき……)
 彼女はどうやって部屋に入って来たんだろう。ノックは聞こえなかった。寝室にいたわたしは起ぬけで、ぼーっとしていた。ずっとベッドの上だった。ドアを開けた覚えは、ない。
 ――瞬間。
 ぞわり、と予感が肌を粟立てた。
 わたしは深く考えもせず身を翻《ひるがえ》して部屋を出た。
 全室がスイートルームだというホテルの屋内はかなり広く、どこまでも廊下が続いている。
 彼女がどこにいるのか見当もつけず走り、ロビーの手前の廊下で、どうんと建物が大きく揺れた。立っていられなくなって膝をつく。廊下の窓がびりびりと震えて、一部に亀裂が走った。
「なに……?」
 音は外から聞こえてきた。
 戸惑うホテルスタッフの脇をすりぬけて、正面玄関から外に出る。
 外は妙に焦げ臭かった。
 少し坂を下ったところ、ロクス・アモエヌスの中腹あたりから、もくもくと黒煙が立ち上っている。
 次いで轟、と低い爆音が一帯を振動させた。遠いところに向かってなにかが飛び去っていく。……マーシトロン?
「あれは……」
 呟くのとほとんど同時に駆けていた。煙を目印にゆるやかな坂をどんどん下っていく。灰の匂いもより濃厚になり、野次馬の姿も見られるようになった。
 おじさんたちの仮研究所。ついさっきまでわたしがいたそこは、黒く焼け焦げて、一部ではまだ火がくすぶっていた。
 火事ではない。穴が空いたコンクリートの壁、支えを失って落ちた屋根、元の色など分からなくなってしまった建材……。なんらかの道具をもちいて攻撃された形跡がありありと残っている。
 消火活動を行う人々、遠巻きに見守る人々。それらの中でも群をぬいて目立っていたのはクレイオスだった。座っているけれど、元々が大きいから突出しているのだ。そばにはおじさんたちが三人いる。
 良かった、無事だったんだ。
「クレイオス!!」
「……タオか」
 クレイオスがこちらを見るために身じろぎし、わたしはどきりとした。
 クレイオスには左腕がなかった。いろいろあってすっかり忘れてたけど、鳥の誓隷に折られたんだっけ……。
 彼を見上げるわたしの顔には、きっとそんな不安が貼りついていたんだろう。
 彼はいつも以上に優しい声で労《いた》わってくれた。
「見苦しいな、すまない」
 わたしは大きく首を横に振る。
 そんなことない。だってそれは町の人を守ってくれた証しだ。わたしがすっかり忘れてて、驚いただけだ。
「大丈夫……なの?」
「応急処置は施したが……。きみこそ、怪我を負ってはいないか?」
 話題がすり替わったことには気づいたけれど、あえて触れなかった。
「わたしは全然。……それよ」
「そんなことより!!」
 七三分けのおじさんが間に飛びこんで来て、しんみりとした雰囲気が瞬時に破壊された。
「大変だ、卵が奪われた!」
「あの横柄者め! 民のためなどぬかしおって!!」
「こちらの話などまるで聞く耳を持たず、ズドン! だ!!」
 誰がと言わずとも分かってしまった。アルコン=ブリアレオス。ペトラポリスの管理者。この焼野原は彼の仕業《しわざ》なのだ。
 だとすると、パパの手帳も、たぶん……。
 冷たいものが背中をすっと渡った。
「ふん、それでも卵はひびも入らなかったがな!!」
「さすがは誓骸だ! つまり誓隷が倒れ誓骸塊《せいがいかい》になるのは!」
「空気中のヌミノースを集約し再生させることが可――」
「アルコン=ブリアレオスは、なにをするつもりなんですか?」
 埒《らち》があかない会話は打ち切って、クレイオスを仰いだ。彼は刹那的に難し気な沈黙を見せたが、すぐに答えを返してくれた。
「誓隷に卵を壊させるのだろう」
 やっぱり……。
 恐れていた現実に顔が強張るのが分かった。
 誓骸は硬くて生半可な力では壊れない。でも誓隷は……少なくとも聖堂に出没したイノシシの誓隷は、誓骸で硬く封じられた壁を壊していた。たぶんブリアレオスは、クレイオスから報告を受けるなり、アジル波で情報を共有するなりして、あのときの戦闘を知ったんだ。
 誓隷に卵を壊させたあとは、自らの手で誓隷を葬ればいい。マーシトロンの腕力は誓骸には効果がなくても、誓隷には通用する。
 誓骸は壊せないのに、誓隷は倒せるという矛盾が頭の隅に引っかかったけど、わたしの足りない頭では解決は望めなかった。こういう小難しい問題こそ専門家の出番だ。早々に疑問は手放す。
 ブリアレオスが奮闘する際にはパパの手帳を用いるつもりなんだろう。誓隷先生と呼ばれたパパの知識と技術を逆用するために、クリストフォロスが盗んだのだ。
 でも手帳は、パパの手帳だけど、ただの手帳にすぎない。
「だが安心しろ!!」
「こんなこともあろうかと!!」
「卵は我々がよく似た誓骸とすり替えておいた!!」
 意気揚々としたおじさんたちが、どこからともなくアーモンドの形をした結晶をとりだした。太陽の光をきらきらと反射させている。屈折率や色艶、誓骸の見分けはわたしにはよく分からないけれど、専門家が口を揃えているのだから、こちらが本物なのだろう。
 なんて用意周到な。よくあのアルコン=ブリアレオスを出しぬけたなぁと感心する気持ちもあったけれど。
 それ以上に、光の下で改めて見た卵に、わたしの関心のすべてが奪われていた。
 やっぱり、気のせいなんかじゃない。色が薄くなっている。つまり、
「弱ってる……」
「「「なにぃ!?」」」
 おじさんたちは一気に色めき立った。
「おいおい、貴重なサンプルだぞ!」
「ど、どうすればいいのだ!?」
「どうって……」
 えっとたしか――
「『ヌミノースがより濃厚で安定的な場所に保管する』――」
「より濃厚な場所?」
 めがねさんが怪訝な声で反芻する。
 それについては、わたしの心当たりはひとつだけだった。
「聖堂、かな……」
「「「あほか!!」」」
 ですよねー。
「せっかく苦労して助けたというのに!!」
「自ら敵のふところに飛びこんでどうする!!」
「あちらの思うつぼではないか」
「でも急がないとかなり弱っているから……このままじゃ」
 ――そうか。
 だから、あそこにいたんだ。聖堂に、あの台座の上に。
 イノシシの誓隷や鳥の誓隷が襲ってきたのも、卵を守るためだったとしたら。
 聖堂の大量の誓骸塊は、意図的に揃集《そうしゅう》されたのかもしれない。
「タオ、猶予はどれくらいだ?」
 クレイオスに質問されて、わたしはじっと卵を観察した。自信はないけれど、目安だけでも答えられるのはわたしだけだ。
「……わたしが気づくくらいだから、かなりない、と思う。聖堂から離れてもう何日も過ぎてるし、たぶん……あと半日もないかも」
「そうか」
 短い返事には決意に支えられていて、硬かった。
 クレイオスの、まだ繋がっている方の腕が伸びてくる。
「卵をこちらに」
「どうするの?」
「聖堂に返す」
「「「無茶だっ!!」」」
 おじさんたちが声をそろえて叫んだ。
「聖堂には管理者が待ち構えているんだろう!?」
「みすみす渡せるか!」
「卵をかばえば、誰であろうと無事で済むとは思えん」
「だがそれしか方法がない」口々に反対するおじさんたちを、クレイオスはひと言で黙らせてしまった。「安心しろ、アルコンは必ず説得する」
 誰一人、うなずけなかった。
 いくらクレイオスでも、あのブリアレオスが相手では分《ぶ》が悪い。でも誰も抗議できなかった。クレイオスの決心がどれだけ固いか、分かってしまったから。
 クレイオスはずっとブリアレオスを尊敬していた。
 正義を貫こうとする心。実行力。統率力。
 ペトラポリスに住む人々に向ける慈愛、奉仕の精神。
 それを見習いたくて、学びたくて、そして習得したくて、薫陶《くんとう》を受けた。
 やむを得ない犠牲が生まれてしまうことも知った。
 そのうち犠牲数を最初から計算しておくことを覚えた。
 被害を最小限に抑える方法も考えるようになった。
 だけどわたしと出会って、〈シンクロ〉して、人類にとって取るに足りないちっぽけな小娘ですら、泣き、笑い、尊厳ある〈人生〉を送っていることを知った。
 被害という名の数字は、命だった。
 より多くの命の安全保障のために、誓隷を排除しようとするブリアレオスの行動も理解できるが、誓隷もまた同質の命ではないかという葛藤が、クレイオスを苛《さいな》んでいるのだ。
 いまわたしたちは〈シンクロ〉はしていないけれど、彼の想いは手に取るように分かった。
 だからわたしは蒼い瞳と視線を合わせて言った。
「わたしも行く」
「ばかか、足手まといになるぞ!」
「パパの手帳がなくなったの」
「んなっ……」
 三人は今度こそ絶句した。
 七三分けのおじさんの意見ももっともだ。戦うすべを持たないわたしは、クレイオスに守られなければならない。わたしに気をとられて、彼は満足にブリアレオスと対決できないだろう。
「わたしがもっとちゃんと注意していればよかったのに、できていなかった。卵のこともあるけど、わたしは手帳を取り返したい」
 クレイオスはしばらく無言だったけど、卵を引き取ろうとしていた手を戻した。
 クレイオスの失われた片腕が気持ちを鈍らせる。
 でも頼れるのは彼だけだった。
 手帳はただの手帳だ。でも、ブリアレオスもクリストフォロスも、そう思っていない。誓隷先生と呼ばれたパパの手帳が、卵を壊し、誓隷を今度こそ倒すために役に立つと思っている。ふたりはすばやく事を終わらせられると確信をもって行動に出た。
 でも実際は、隠れた不確定要素が状況を危うくしている。
 ふたりを止めなきゃ。
 言葉を交わしたわけでもないのに、クレイオスがうなずいた。
 〈シンクロ〉していなくても、わたしたちはより強く、お互いを思い合っていた。


 クリストフォロスはアルコン=ブリアレオスの秘書らしい。
 その関係から、クリストフォロスはロクス・アモエヌスの管理を任されていた。
 アルコンの信頼は高く、クリストフォロスはホテルのマスターキーも預かっている。
 クリストフォロスがブリアレオスの秘書だったことは初耳だったけど、初めて彼女に会ったときからそれっぽい職業を連想していたし、マスターキーのことは予想していたので、とにかく色んなことが腑に落ちた。
 ふたりはそろそろ聖堂に到着する頃合いだ。
 追いかけても間に合わないかもしれない。
 状況を共有理解し、不安に駆られたわたしに対して、クレイオスは力強く「大丈夫だ」と言ってくれた。
 くすぶる火炎を鎮静させるため集まった作業員からゴーグルを借りて装着した。そのままクレイオスの腕にしっかり抱えこまれる。。
 密着したクレイオスの体は硬く、ほんのり温かかった。どうも排気熱のせいらしい。昨日に引き続くゼロ距離にわたしはドキドキしていた。
「あまりスピードは出さないつもりだが、なるべく急ぎたい。怖かったら言って欲しい」
「うん」
 ごぅっという音がロクス・アモエヌスに響き渡り、ふわりと体が浮き上がる。
 おおおお、飛んでる!
 地面が遠ざかり、高度を稼ぐと、今度はクレイオスの体が少し前のめりになって、強力な圧迫感が体を襲ってきた。
 目的の聖堂はペトラポリスの中心都市から東へ行ったところにある。
 とにかく早く、と、わたしは祈った

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