Magna Mater τρια #003

 クリストフォロスの手配で、翌日にはクレイオスに会えることになった。ただ午前も午後も仕事があるそうで、面会は夜になるらしい。
 それまでは自由行動。
 研究熱心なおじさまたちとはちがって閑暇のあるわたしは、天気の良さも相まって外に出ることにした。ホテルの外ではなく、ロクス・アモエヌスの敷地の外、ペトラの町だ。
 それをクリストフォロスに告げると、彼女はわたしの我がままに気軽に応じてくれた。
「分かりました。では私が案内させて頂きます」
「クリストフォロスさんがですか? いいんですか?」
 この人、この前からずっと傍にいる気がするけど、わたしなんかにかまけてていいのかな?
「ええ、アルコンにご来賓のお世話を優先するよう、仰せつかっていますから」
「あるこん?」
 知らない単語に首をかしげると、クリストフォロスはわずかに苦笑した。わたしの無知振りに呆れたんだろう。
「このペトラポリスを管理しているマーシトロンです。名前はブリアレオス、アルコンというのは、マーシトロンの称号の一つです」
 なんでも「アルコン」というのは、マーシトロンの上位機関に実績を認められると賦与《ふよ》されるものらしい。
 人間でいうところの役職みたいなものだろうか。社長とか、村長とか。訊いてみると、ちがうが、似ている、と苦笑いされた。
 マーシトロンにおけるアルコンとは、いくつかの善《アガトス》を成したもの、という意味になるらしい。種族内での地位的な立場が上がり、敬われるようになるとか。
 ブリアレオスというマーシトロンは、ペトラポリスの社会理念を掲げ、基盤を築き、それを維持してきた功績が認められてアルコンに認定されたそうだ。
「アルコンの名に相応しい方ですよ」
 そう語るクリストフォロスの目は熱っぽくて、彼女がブリアレオスの信者であることは、物事に疎いわたしにもすぐに分かった。
「いまは所用で出ていますが、夕方には戻る予定になっています。その時にまた改めて紹介させていただきます」
 そう言われてもなあ……。わたしはパパの代理でクレイオスに会いに来たんだから、別に挨拶なんてしなくていもいいんだけど……。
 とはいえ、わたしはペトラポリス、引いてはその政府、つまり管理者のマーシトロンに招かれた要人という扱いになっている。ブリアレオスという名前の、アルコンという立場にあるらしいマーシトロンに興味はないけど、立場上、都市の管理者には挨拶くらいはしておくべきかもしれない。
 そう心に止め置いて、わたしたちは外に出る支度を整えた。

 必要な物はすべて先方で用意してくれるという提案に甘えて来たので、わたしは着替えすらろくに持っていない。外に出ると決まってまず用意されたのは、若草色のチュニックに白い薄手のベスト、黒のレギンスとスニーカーという組み合わせの服だった。腰にはゆるく、細い茶色のベルトを一本。
 自分で言うのもなんだけど、割と似合ってて、クリストフォロスも満足そうに「お似合いです」と言ってくれる。
 気を良くしたわたしは鼻歌交じりに、ほとんど身一つで外遊に向かった。

 ロクス・アモエヌスの敷地は広い。しかも小高い丘の上にあるので、町に向かうにも骨が折れる。
 そこでクリストフォロスは〈マトゥス〉という、二輪車で荷台引く四人乗りの乗り物をホテルロビーの前に手配してくれた。
 これがまたのんびりとした移動車で、走り出すと内燃機関《エンジン》がトゥ、トゥ、トゥ、トゥ、と気の抜ける音を出す。大したスピードも出ず、せいぜい早歩き程度の移動だけど、その分、ゆるやかな風景の移り変わりが楽しめる乗り物だ。
 途中で三人のおじさんたちが、えっちらほっちら坂を下っているところに遭遇した。どうやらわたしたちよりもひと足早くホテルを出ていたらしい。
 クリストフォロスが三人を呼び止める。どうやら彼らはロクス・アモエヌスの敷地内に臨時の研究所を与えられているらしく、そこに向かっている途中らしかった。
「持ち帰った誓骸の分析は終わりましたか?」
「それが昨日、ヌミノースが発現してな」
 ヌミノースは誓隷が発する不可思議なエネルギーの名称だ。たいていは超自然現象が発生する直前に観測される。誓隷が意図的に「なにか」をするときに体にまとう光の帯のようなあれだ。
 ヌミノースが具体的に形を得ると、水が氷ったり、火柱が上がったりして、周囲に大きな被害をもたらすことがある。
 誓骸は誓隷の遺体だ。一見すると青白い鉱物で、大きさはさまざま。特に巨大なものは誓骸塊《せいがいがい》と呼ばれることもある。小さいと空気中に融けてしまう性質もあることから、本来、誓骸は酸素や水素のように空気中に存在するもので、一定の条件の下、あるいは飽和した場合、自然と顕在化するのではないかという説もある。
 その誓骸から、ヌミノース。それは、つまり。
「――おそらく、誓骸の卵だ。いま報告書を作っている」
 七三分けさんは確信をふくんだ声音で断言した。
 クリストフォロスは短く「分かりました」とだけ告げて、再びマトゥスを発進させる。
 下り坂の向こうには、白い壁にオレンジ屋根の、ペトラの町並み。
 それが十分近付いてきたところで、わたしたちはマトゥスを降り、歩いて景観を楽しんだ。
 ほんと、いい天気だ。
 日差しは痛いくらいなんだけど、風は気持ちいい。
 同じ北半球の夏でも、秋津とペトラでは大ちがいだ。
 秋津の夏は季節風の影響で湿度が高く、低気圧に襲われて嵐になる。晴れていても夕方には突然の大雨に見舞われることもある。
 一方ペトラはいまは乾季で、昼夜の寒暖の差が激しいものの、季節がもう少し進むまでは雨もあまり降らないらしい。
 そういう季節柄のせいか、町の中を見まわすと、突発的な雨をまるで想定していない様子が窺える。
 大通りに店舗を構えている店は、必ずテラス席が設けられていて、しかもその席数は、急に雨が降りだしたら片付けに手間取って片付けられず、ずぶ濡れになりそうなくらいの数だ。
 木陰になりそうなところには隈なくベンチがあるし、なくても自前の簡易イスに座って、座談会を開いている地元住民をしょっちゅう見かけるし。
 わたしたちが歩いている目抜き通りには、雨避けもない屋台が並んでいて、行きかう人々を呼びこんでいる。
 美味しそうな匂いにつられて、わたしもふらりと足を向けた。
「お嬢ちゃん、観光客だろ? ペトラポリスへようこそ!」
 人懐っこい歓迎とともにストロー付きのコップを渡された。中身はブドウジュースかな。買うつもりはないので慌てて拒否しようとすると、「遠いところからペトラに来てくれた人からお金なんて取らないよ!」と一笑されたので、大人しく頂くことにした。
 ごくんと一口ごちそうになりながら、ふと疑問を覚える。
「なんで観光客だって分かったんです?」
「そりゃ分るさ。ここにはあんたくらいの年齢《とし》の子はいないからね」
 指摘されて周囲を見渡すと、たしかにそうだった。
 木陰で談笑している集団も、目抜き通りを歩いている人も、みんな四、五十歳は過ぎている。わたしに一番年齢が近いのはクリストフォロスくらいだ。
 なんで?
 首をかしげると、クリストフォロスが教えてくれた。
「ペトラでは、ロクス・アモエヌスの町に住めるのは四十二歳以上と決められているんです」
 そしてそれ以下の年齢は国土に点在する田舎町で農業を営んでいるらしい。
 それがペトラの社会基盤を支えているのだという簡単な説明でわたしは相槌を打った。
 これ以上関心を向けると、クリストフォロス先生の特別社会授業が始まりそうで怖い。学校の成績は良くなかったから、藪をつつくのはやめておこう。
 それから二十歩も進まないところで、今度は別の屋台のおじさんに引きとめられた。
「こいつも食べていきな」
 スーヴラキという肉の串焼きをごちそうになる。
「こっちもどうぞ」
 さらにその隣の屋台からは、アプリコットやイチジクのドライフルーツとアーモンドを渡されて。
「じゃあこいつはどうだい?」
 さらに隣の屋台のおじさんからは、クルーリという、大きくて平らなドーナツのようなパンを持たされて。
「こっちも美味しいよ!」
 ワインを薦められたので、未成年だからと断わった。さすがにこれはだめでしょ。
 ブドウも美味しいけどオレンジもどうだと、フルーツカットを食べさせてくれるし。
 お土産にいいよと、オリーブオイルの石鹸をプレゼントされたり。
 ロクムというお菓子を、もうお腹いっぱいだからと断ったら、コットンと、セージと、マヌカという蜂蜜の小瓶を一本ずつ持たされる。
 手の平大のチーズを袋詰めしてくれる人もいた。
「ペトラのひとたちって気前がいいんですね」
 とりあえず、これでもう今日のお昼ご飯の心配をする必要はなくなった。
 両手いっぱいになった荷物は、さすがに重い。
 隣でクリストフォロスが少し笑った。
「ペトラポリスでは衣食住が保障されているので、物に対する執着が低いと言われています」
 ああ、なるほど……。万が一、収入がなくっても生きていけるから、あんなに大らかになれるんだ。
 我が家の家庭の事情を考えると、それはちょっと羨ましい。
 うちにはいい歳した無職がいたからなぁ。人間嫌いで、誓隷が好きな。
「それにペトラにはフィロクセニアといって、外から来たお客様をもてなす習慣があるんです」
 へえ……。
「秋津にもありますよ、そういうの。村の外から来たひとは、必ず村総出でもてなさないといけないんです。参加しなかった家は村の生贄にされちゃうって」
「それは物騒ですね」
「や、いまはそんなことはないですよ」
「いまは?」
 高速で目を逸らした。
 だって、じぃじが子どものころまでは、そういうことが実際にあったらしいから。
 村の外れには、大人たちが子どもたちに近づくなと言い聞かせる、焦げた巨石が鎮座する怪しい広場もある。
 嘘はつけないけど、あえて肯定する必要もないだろう。……目を逸らした時点で肯定しているも同然のような気はするけどね……。
「わたしがいた地域では、〈えびすさまが来た〉とか〈いなささまが〉とか言うんですけど」
 この辺はパパから聞いた話だ。
 秋津は海に囲まれているから〈来訪者〉は総じて海の向こうから来る。〈えびす〉や〈いなさ〉という、海に由来する言葉が使われているのはそのせいらしい。
「この〈えびす〉や〈いなさ〉は、誓隷のことなんじゃないかっていうのがパパの意見なんです。誓隷って危ないから、悪さをしないようにもてなすことが根づいたんじゃないかって。もてなさなかった人が生贄にされるのも、誓隷を鎮めるための犠牲になったんだって言ってました」
「リョーイチローらしい見解ですね」
「本当かどうか分かりませんけど、ちょっと説得力ありますよね。だいたい秋津って、洪水とか、火山の噴火とか、ちょっとした災害のたびに人柱をたててましたし、土地神様に若い女の子を花嫁として贈ったりしたって話はあちこちの地域に残ってますし、その手の昔話は多くって。一応、神さまへの捧げものという体裁ではあるんですけど、神さまなんて、いるのかいないのかはっきりしないものよりも、誓隷のせいだって言われるほうが、まだ信憑性はあると思いません?」
「そうですね……」
 クリストフォロスは相槌をうち、少し考えて言った。
「わたしは神の存在にいささか否定的なので、タオさんの仰る通り、誓隷の仕業という意見に説得力を感じます」
「でしょ!?」
「しかしそれ以上に、タオさんがリョーイチローの娘であるという事実を痛感しました」
 なんで!?
 わたし、そんなにパパみたいに語ってた? 
 それとも顔? このいかにもな秋津顔が、パパとよく似てるってこと?
「……そんなに似てます?」
 顔を両手で挟んでおそるおそる聞き返すと、クリストフォロスはやんわりと口許を緩ませた。
「いいえ、あまり」
 ほっ。
「ただ、ふとした拍子に、どことなくリョーイチローを思い出します」
 それってやっぱり似てるってことでしょ。
 あまり嬉しくない返事に顔を歪ませたけど、クリストフォロスの、どこか昔を懐かしむような遠い目に気づいて、その横顔に少しのあいだ見惚れてしまった。
「……クリストフォロスさんは、パパの同級生なんですよね?」
「ええ。といっても、私が一方的に見知っているだけです。リョーイチローは有名でしたから」
 しおらしく学生らしいパパなんて想像もつかない。きっとパパはここでも、いつものように好き勝手にやっていたんだろう。
 といっても、ペトラポリスは極端に誓隷が少ない土地柄らしいから、パパの持ち味は百パーセントは発揮されなかったんじゃないかと思う。秋津では三歩進めば誓隷と遭遇できるけれど、ここではもう数十年単位で誓隷が目撃されていないと聞いた。昨日のイノシシの誓隷は本当にイレギュラーな存在だったって。
 だからきっと、罠を仕掛けたり……、大昔の史跡なんかを調べて痕跡を探したり……。
「タオさんから見たリョーイチローという人物は、どんな人ですか?」
「え?」
「娘という立場から見たら、リョーイチローという人間はどんな風に映るものなのかと思いまして。……すみません、個人的な興味です」
 申し訳なさそうな謝罪には、答えたくなければ答えなくていいという配慮があった。
 わたしは改めてパパのことを脳裏に浮かべる。わたしの知っているパパは、
「誓隷が大好きで、人間嫌いで、」
 変人で、偏屈で、でも頭は良い。他人とは付き合わず、仕事という仕事をしない。じぃじの悩みの種。
 顔よりも、誓隷をあやす背中のほうが思い出しやすい。いつも傷ついた誓隷を連れ帰っては、傷の手当てをして野山に送り返していた。
 世間様にとっては、そこが大事だったみたいだ。生態がよく分かっておらず、〈ヌミノースの具象存在〉といわれる誓隷をどう物理的《・・・》に「治療」していたのか――。人間嫌いのパパが他者に教えるなんて、まずありえないし、家族仲も決して良くはなかったから秘密は保たれ続けた。
 頑固で懐古主義者のじぃじとは水が合わずけんかばかり。
 娘といえど、重度の人間嫌いの前では困り顔をされるだけで……。
「――あまり、変わらないと思いますよ。みんなが考えているのと、わたしが知っているパパって」
「そうですか」
 クリストフォロスは、それきり黙ってしまった。
 それからわたしたちは無言で歩き続けた。
 ペトラの地理に疎いわたしは、自分がどこに向かって歩いているのか分からない。でもクリストフォロスが一緒なら迷子になることもないだろうと、足の向くまま、人の流れに乗って歩き続けた。
 ペトラポリスは、秋津とはまるで雰囲気がちがった。ここは誰もが伸びやかで、おおらかだった。町の隅々まで痛いくらいの日差しが差し込んで、どこもかしこも明るく楽しい。島の山間部や小さな平野に凝り固まって住む秋津人とは根柢から人間性が異なる。
 たぶん誓隷の出現が極端に低いという土地柄もあるんだろう。
 誓隷はとにかく危険な生き物だ。うっかり怒らせると水や炎を操る能力で人間の営みを簡単に壊してしまう。だから誓隷がいない土地はそれだけで平和だと言える。
 でもパパにはちょっと退屈な町だったかもしれない……などと考えていると、白壁とオレンジの屋根の町並みの間に、きらりと光るものを見つけた。見覚えのある金属質の――
 ――クレイオス。
 集合住宅が集まった地区に、大きく拓けた、窪んだような広場があり、彼はわたしたちが歩いてきた大通りに背を向ける形で広場の端に座っていた。
 彼を見つけたクリストフォロスが、彼の名を気軽に呼んで近づいて行く。
 わたしはそれについていって、改めて、太陽の下の明るい場所で、クレイオスというマーシトロンを見つめた。
 マーシトロンの身体構成は、基本的には人間と同じだ。頭部、胴体、そこから伸びる手足、これらのパーツがヒトと同じように組み合わさっている。
 ただしその表面は、人間の肌とちがってとても硬い。人間でいうところの内臓も、マーシトロンのそれは様々な金属の集合体で、生命の維持に必要な働きをし、活動に必要な動作をしているという。
 だから基本的な造りはヒトと同じでも、様々な箇所がヒトとはちがう。
 関節には繋ぎ目があるし、瞳は昼間でも猫のように光る。クレイオスの瞳は、きれいな蒼だ。
 身長の平均値もマーシトロンのほうが人間を遥かに上回っていて、背の低いわたしは、座っているクレイオスと丁度、釣り合うくらいだった。目算だからあやふやだけど、彼の身長はだいたい三メートルくらいあるんじゃないだろうか。
 その体躯に比例して、手だって大きいし、胸板も厚い。
 人間の筋肉が描く稜線とは明らかにちがう無骨な腕の中に、誓隷を倒してしまうような武器が内蔵されている、というのは、そら恐ろしくもあるんだけど――…。
 風が気持ちいい青空の下でくつろぐ彼を見ていると、親しみやすさのほうが何倍も強く感じられて、むしろ頼もしく思えた。
 マーシトロンは人間の脳に匹敵する部分から特殊な電波を送受信していて、脳内で他の仲間との情報交換をしたり、それぞれの意識を共有して、個体の経験や知識を公共化している――と聞いた。そのせいか、瞳に宿る知性は人間のそれを圧倒的に凌駕した落ち着きが見てとれる。
 そこに感じる安心感は、家族や、友人と一緒にいるときのものとは、まるでちがってて、だからこそ殺傷能力のある武器を持っていても、こんなに近くにいることを怖いとは思わない。
 きっと、ペトラの人たちも同じ意見のはずだ。
 それにわたしは知ってる。
 あの聖堂で、彼は自らを盾としてわたしたちを守ろうとしてくれた。
 〈シンクロ〉のせいでわたしの精神が害されることを心配してくれた。
 いつも陶酔した熱っぽい目で誓隷のことだけしか語らないパパが、クレイオスという名前の友人について語るときだけは、人間性を伴った理性を見せていた。クレイオスという彼は、いっときでもパパを「人間」に「戻して」くれたのだ。
 なによりも――。
 わたしたちは、わたしと彼は、ほんの一瞬だけだったけど、確かに繋がっていた。
 だからわたしは、彼を、味方だと信じて疑わなかった。
「Καλησπ?ρα σα?《Kalispera sas》」
 クリストフォロスはクレイオスを取り巻いていた老人たちに挨拶をしていた。
「民会《エクレシア》のお邪魔をしてしまって申し訳ありません」
「いや構わんよ。ちょうど行き詰っていたからな」
「聖堂の件ですか?」
「うむ、早めに処遇を決めた方がいいだろう?」
「そうですね、エンポリウムにもすでにいくつか問い合わせが来ているようですから、早期決定は助かります」
「もう、か。まったく耳ざとい連中もいたものだ」
 老人たちは顔をしかめた。
 クリストフォロスの話の内容は、難しい単語が多くて委細まではくみとれなかったけど、聖堂という単語から察した通り、誓骸に関する話し合いのようだった。
 どうやら彼らは政治的な市民の代表らしい。
 打ち合わせを兼ねたやり取りがクリストフォロスとの間で交わされ、ほどなくして「ではまた」とクレイオスに礼をとって、老人たちが散っていく。
 クリストフォロスはその中のひとりについて行った。
「見送ってきます」
 もしかして気をつかてくれたのだろうか。
 大きな広場には沢山の人が談笑していたり、通りすぎたりしているけれど、マーシトロンの彼の傍にはわたしひとりしかいない。
 振り返ってみると、蒼い瞳がまっすぐわたしを捉えていたので、わたしはすっかり恐縮してしまう。
 妙な気分だ。
 わたしたちの出会いは、これが初めてじゃない。
 だけど、危機に直面した戦場での猛々しい彼とは異なって、目の前のマーシトロンはとても穏やかだったので、同一人物とは思えないほどちがう印象を受けた。
 だからつい、「初めまして」と言いたくなる。
 でもわたしたちは、初めてじゃないし、それは適切な挨拶じゃない。
 じゃあ、こんにちは? いい天気ですね?
「――妙な気分だ」
 焦るわたしの耳に、低くて優しい声が聞こえた。
 その内容は、わたしがさっき思ったのとまったく同じ。
「我々は初対面ではないが、いまここで、最初の挨拶をさせてもらえないだろうか?」
 こんな小娘が相手だというのに、クレイオスはどこまでも紳士的だ。折り目正しく機嫌を伺われて、わたしもまんざらではない。
 いいひとなんだ。
 そうだよね、あのパパと友だち関係を継続できるほどなんだから。
「うん、その方が、お互いのためみたいね」
 すっかり気を許したわたしに敬語はない。
 だけどクレイオスはそれに気を悪くした素振りもなく、言い出した者の責任を負って自ら名乗り出た。
「クレイオスだ」
「田尾さやかです。パパがいつもお世話になってます」
 人間同士なら握手を交わす場面だけど、ヒトとマーシトロンでは手の平のサイズが合わない。代わりにわたしたちは視線を重ね、互いの意志を示した。
 マーシトロンに表情筋はないけど、彼が友好的な気持ちでいてくれることは伝わってくる。
 聖堂で〈シンクロ〉したわたしたちには、それだけで十分に必要な情報のやり取りができた。
「リョーイチローの手帳を、きみが預かっているとクリスに聞いた」
 クリス? ……あ、クリストフォロスのことか。
 愛称で呼ぶくらい仲がいいんだ。ふーん……。
「防犯上の危険性があると忠告を受けた」
 そのことか。
「確かに気をつけて保管しろって言われたけど、そんなに神経質になることないと思うよ? クリストフォロスさんやおじさんたちにも言ったけど、あの手帳はパパの手帳だったってこと以外、なんの価値もないんだから」
 わたしはいささか辟易《へきえき》していた。クリストフォロスといい、クレイオスといい、あまりにも警戒し過ぎじゃないかな。
 だけどクレイオスは真剣だ。
「十分な価値だ。リョーイチローを知る者にとって、リョーイチローの言葉は単語ひとつでも大きな意味を持つだろう」
 そんな大げさな。
 ……と思ったものの、クレイオスの態度に、過度に誇張している様子はない。
「パパって、そんなにすごいの? だって、ふらっと森に行って、誓隷拾ってきて、手当てして、また森に帰してただけだよ……?」
 猜疑心が勝《まさ》っているわたしに対し、クレイオスは大きくうなずいて肯定の意志を示す。
「生かせるということは、効率良く殺せることと同義にもなる」
「……」
 わたしは言葉を失った。
 パパの研究は、パパの意図しないところで、世の中の人にとって魅力的らしい。
 それは誓隷を決して快くは思っていないわたしにも、眉をひそめさせられる事実だった。
 パパが長らく「誓隷先生」と呼ばれていたのは、人間嫌いで、どこの組織にも属しないパパをからかっているんだと思ってたけど、内実は違うのかもしれない。揶揄《やゆ》も入っているだろうけど、それは半分だけで、残り半分には「誓隷の医者」という意味がこめられていたんだと思う。
 生かすための知識が、殺すために応用される。
 パパが自分の行動に慎重的で、周囲に対して常に疑いの目を向けていたのは、単純な好き嫌いだけじゃなかったのかもしれない。パパの態度が、わたしとじぃじに対してだけやや軟化の傾向にあったのは、血の繋がった家族だからじゃなくて、パパの趣味に否定的だったから、だったのかも……。
「……だからあんな忠告を」
 クリストフォロスは言ったんだ。
 どこからパパの研究を狙う輩が来るとも限らない。
 おまけにわたしは昨日、わたしは晩餐の席でパパの意志に従うという旨の宣言をした。
 手帳が欲しい人が、それを額面通りに受け取って、手帳が自分の元に来ることはないと思いこんだら、思いつめて強引な手段に出るとも限らない。パパの知識を手に入れるために。
「このペトラポリスでは他者の財産を簒奪する行為は禁じられている。もちろんそれが知的財産であってもだ。国際法に準ずると、犯罪は犯罪を起こした人種や、犯罪の原因となった素因に関係性をもたず、犯罪が起きた土地の律令によって裁かれるので、きみがなんらかの害を受けたとしたら、その多くは犯罪として断じられるだろう」
 えーっと……。
 もし手帳が盗まれたり壊されたりしたら、それは犯罪だから、犯人を捕まえてくれるってことだね。
「しかし犯人の捜索や断罪には時間がかかる。もしきみが犯罪に巻きこまれたとき、その間《かん》にきみは多大な精神的負担を負うことになるだろう。被害者は得てして、誰かが疑わしく思え、怪しく見えるようになる」
 ――それは……。
「タオ」
 クレイオスの目が、わたしを引きつけた。
 わたしは二つの蒼い光を見つめて、彼の言葉を聞いた。
「手帳はリョーイチローの遺産だ。わたしはそのような困難に煩《わずら》わされることなく、きみに大事にしてもらいたいと思っている」
 ――遺産。
 その単語だけがやけに重々しく聞こえて、わたしは押し黙った。
 人間嫌いで、頭が良くて、打算が働くパパから持たされた唯一のもの。その正確な価値を改めて教えられて臆してしまった。あれはわたしの想像以上に重たいものだったんだ。
 クレイオスの言いたいことは分かる。でも当の本人は、わたしに持っていろとは言わなかった。
 いまの機会は、それを果たすにちょうどいい。
「クレ――」
 意を決して呼びかけようとして――。
 それよりもわずかに早く、クレイオスが顔を動かした。
 わたしに向けられていた視線が移動し、わたしの背後の空へと向かう。方角的には南西向きだ。
「……?」
 なんだろう。
 気になって、わたしも同じ方向へ目を向けたけど、彼の気を引いていると思われるものは見つけられなかった。
 青い空と、白い雲。あとは一羽の鳥が飛んでいるくらいだ。
 気になることといえば、その鳥がけっこう大きいことだろうか。かなり高いところを飛んでいると思われるのに、羽を広げたその大きさは、わたしの人差指くらいの大きさがある。
「鳥がどうかしたの?」
「鳥?」
 なにげなく聞いてみると、硬い声が返ってきた。驚いているように聞こえる。なんのことだ、と、訊ねられているような気がする。
「だって……」
 そこに飛んでいるでしょ。
 そう答えようとして。
 ――嫌な予感が、ぞわり、と走った。
(もしかして……)
 視えていないんじゃないだろうか。
 なにかが空を移動する異変――空気の流れや、音や、そういった人間の感覚器では捉えきれないものを、マーシトロンの彼は優れた受信機で捕捉したけど、その正体を視認できなかったから怪しいと思って、それで……。
(でも、それって……)
 ヒトの目にとらわれ、マーシトロンの目に映らないもの。
 ――誓隷。
 答えが出、クレイオスは素早く動いた。
 立ち上がり、広場をひと息に駆けぬける。
「だめだよ、視えないんでしょ!?」
 わたしの制止なんて、もちろん彼が聞くはずもない。
 大きな背中があっという間に遠ざかっていく。
 ああ、どうしよう! 追いかけなきゃ!
 そのとき、タイミング良くクリストフォロスが戻ってきた。
「タオさん、クレイオスは」
「良かった! これ荷物! お願いします!」
 クリストフォロスの言葉をさえぎって、もらったお土産をどさりと押しつけた。
「あ、あと避難! みんなを避難させてください!」
 説明する時間も惜しい。
 でも彼女ならきっと状況を察してくれるだろうと期待して、クレイオスを優先する。
 彼のことだ。町の中で誓隷と接触するのは避けたいと考えているだろう。だから彼が向かったのは町の外、それも、なるべく町から離れた、開けた場所だ。
 町中の道がどこに続いているかは知らないけど、ロクス・アモエヌスから町並みを見下ろしたことがあるので、大雑把な作りは分かっている。あいまいな記憶を頼りに、町を形成している特徴的な白壁を辿ってペトラの町から出た。
 町の外は丘陵続きになっていて、地面が波打っているようにも見えた。舗装されていないものの、人に踏みならされた小石まじりの道があり、クレイオスの足跡が残っている。
 肝心のクレイオスの姿は見えないけど、左手の方角から、例の大きな鳥が砲撃される場面を目撃して息を飲んだ。
 クレイオスだ。
 鳥は、ぎゃいぃ、と、耳をつんざく酷い絶叫をし、一瞬体勢を崩したもののすぐに持ち直して首の向きを変えた。
(あっちか……!)
 跳ねるように走り出して丘を越えると、崩壊した建物の残骸が残る遺跡のような場所にたどり着いた。
 青空が見える広い敷地。屋根も壁も崩落して土台だけを残したものや、柱や肘木など家屋としての全体像がぼんやりと残っているものもある。年季の入りようでは、初日に見た、あの誓骸だらけの聖堂よりもさらに古めかしい。石造りである点は同じだけど、こちらは聖堂とはちがってどうにも使い道がなさそうだ。風雨を凌《しの》ごうにも心もとない。
 そんな場所で、わたしはようやくクレイオスに追いついた。
 しかももう交戦が始まっている。
 予想よりも遥かに大きかった鳥――クレイオスを覆うくらいはある――は、ホバリングをしたり、クレイオスの背後に飛んで回りこんだりと、せわしなく動いていた。
 一方クレイオスは、鳥の動きを把握しているようではあるものの、迎え撃つ動作がどうにも鈍い。やっぱり視えないというのは致命的なんだろう。羽音、息継ぎ、空気を伝ってくる振動、目以外のすべての器官を総動員しても、決して鳥に勝っているとは思えない。
 かといって、負けてもいないのが彼の凄いところだ。
 すべて後手に回らざるを得ない防御は、的確に角度も予測して機能しているし、たとえずれることがあっても、その傷は浅く致命傷には至らない。
 おまけに攻撃を受ければ、必ずカウンターで切り返している。
 防ぐことに神経を集中させれば防戦一方になってしまってもおかしくない状況で、彼はむしろ積極的に動き続けていた。
 たぶん長引けば長引くだけ不利と踏んで、攻めこんでいるんだろう。
 ああ、もう! だから言ったのに!
 もどかしさから地団太を踏み、十分に離れた安全な場所から、より戦場に近いところへと駆け出した。わたしと彼とでは身長差がありすぎるので、適当な瓦礫をよじ登って目線を合わせる。
 クレイオスはそんなわたしに気づいていて、くちばしを武器にした大型怪鳥をに拳を叩きこみ、大きくのけ反《ぞ》らせた上で距離をとった。
「逃げろ。ここは安全ではない」
「そんなこと分かってる。でも必要なものがあるでしょ?」
 気負けせず言い返すも、クレイオスは良しとしない。
「タオ、きみの目は確かに役立った。ほんの一瞬ではあったが、きみが弁別した部分は敵の弱点だった。リョーイチローはきみを弟子にしていたのだな」
「…………」
 否定はできなかった。
 でも弟子とか、そんな大層なものじゃない。そもそもパパは極度の人間嫌いで、娘のわたしにもぎこちない対応をしていたし。だけど一緒に暮らしていると自然と覚えてしまうことはいろいろとある。
「それでも危険が伴う以上、わたしはきみを巻きこみたくはない」
 そう言って、彼はわたしから離れて行こうとする。
 ちょっと、待ってよ。
 イラっとした。
 湧き立った感情が突きぬけて、わたしは踏み出していた。
 危ないってことは分かってる。ここは戦場だし、気をぬくことはできない。
 でもいま、そんなこと言ってる場合? あのときと同じように、クレイオスが守りたい人たちが危険になるんだよ?
 〈シンクロ〉はリスクがあるらしいけど、わたしはそれを承知してるし、覚悟もしてる。
 それに、わたしたちは一度〈シンクロ〉を体験してる。そして無事だった。今度もまた無事で済む確率は高いはずだ。
 なにがちがうの?
「あのときもいまも、危険なのは同じでしょ!」
 叩きつけるように言い放って、その後は夢中だった。
 わずかに距離が空いたクレイオスのおでこをめがけて飛んだか、それとも背伸び程度だったのか、そのあたりの記憶すら曖昧だ。
 その後《あと》が強烈すぎて、こみ上げてきた怒りのような感情と一緒に、直前の記憶を吹き飛ばしてしまったらしい。
 ごちん!!
 痛い!
 そう思ったあとからは、はっきり覚えている。
 引っ張られるような感覚があって、わたしは知らないところにいた。真っ暗だけど、視界が利く場所――そこは目で見るところではなく、感じる場所だった。
 佇立してるわたしのところに、文字とも言語ともつかないたくさんの情報が集中豪雨のように降り注いでくる。
 雨粒のひとつひとつには、場面に応じた映像があり、音声があり、感触があり、その他もろもろのたくさんの情報が付随していて、わたしがちょっと気まぐれに意識を向ければ、映像は動き、誰かが喋りだした。これは、なんだろう。
 踊るような好奇心に負けて、そっと手を伸ばすと、脳裏にひとりのマーシトロンのシルエットが閃き、彼に対するクレイオスの感情がなだれこんでくる。
 憧れと、圧倒的な尊敬。信望。少し時間が進み、今度はわずかな懐疑が芽生える。
 驚いたわたしは思わず手を引っこめた。とたんに元の場所に佇んでいた。
 いまのはなんだったんだろう。
 見覚えのない人物に、感覚や心情が伴って再生されるという奇妙な刺激。
 ふたたび物見高さをそそられて、また性懲りもなく手を伸ばす。
 触れると、空気が、見えるものが、匂いが――変わった。


『急にすまない』
 クレイオスの声だった。耳の奥に響くと同時に、真っ黒の眼前に白い文字が表示されて、頭の中に彼の心情が浮かぶ。心から申し訳ないと思っている。平和だっただろう日常に水を差してすまないと。
『そうだね、驚いたよ』答える声には聞き覚えがあった。男性にしては高めの……パパ? 『何年振りかな、あなたの声を聞くのは』
 ゆるやかな声を聞いて、学生のころから変わっていないな、とクレイオスは安堵する。人間の寿命は短く、たった数年で様変わりする者も少なくはない。けれどパパにはそれが全く窺えなかった。他者に流されず己を貫く心の強さは変わっていないようだ。
『頼みたいことがある』
 意を決して、クレイオスは事情を簡潔に説明した。
 ペトラポリスの聖堂で巨大な誓骸塊が見つかったこと。
 調査のために外部から専門家が呼び寄せられること。
 最後にきみにも来てほしいと告げて締めくくる。
 パパは長い間、黙ったままだった。クレイオスはじっと返答を待ち続けた。
 どうやら二人は国際電話で話をしているらしい。秋津のうちには電話はなかったから、たぶん、クリストフォロスが訪問してきたときに携帯機器を持ちこんだんだろう。わたしがパパの代わりにペトラに向かうことになったのは、この直後のこと。
 これはクレイオスの記憶なんだ。
『……あなたは相変わらず、いろいろあるようだね』
 揶揄《やゆ》するような、同情するような、複雑そうなパパの声がようやく出てきた。
 そのたった一言で、クレイオスの思考が苦い色に染まっていく。
 クレイオスには尊敬するマーシトロンがいて、長い間――人間が何世代も命をつなぐほどの時間、彼を補佐し、彼に仕えていた。ペトラに居つくようになったのも、ポリスの運営を手伝うためだったらしい。
 その過程で、ペトラで生まれ、ペトラで死に、連綿と続く人間たちと触れ合うようになる。そのうちクレイオスは己自身の考えを持ち、尊敬するマーシトロンの行動理念に小さな疑問を持つようになってしまった。
 クレイオスの師匠はいついかなるときも合理的で理性的だ。
 でも人間は、ときに理不尽で、不可解で、矛盾に満ちている。皮肉なことに「それ」こそが最も人間らしい。
 歯に詰まったナッツのような疑念は、時間をかけて醸造され続けていた。
 クレイオスがパパと出会ったのは、そんな折だった。
 パパは、マーシトロンが保護している人間を後回しにしてまで、誓隷を保護しようとする。
 いままで一度も見たことのない人種に、クレイオスは驚きを禁じ得ない。磁石が引かれあうように、ふたりは言葉を交わすようになって、激しい議論になることもしばしばだった。
 クレイオスはパパに少しずつ感化されていった。
 不動であったはずの師に対する尊敬が、揺らぐのを自覚しつつ……。
『僕が考えるに』パパの声で、クレイオスの思考が一時中断された。『あなたは迷っていて、答えを欲しているように思えるよ』
『……その通りかもしれない』
 なににも惑わされないパパなら、道を示してくれるかもしれない。師は正しいのか、間違っているのか。
『だったら、僕は行くべきではない。他に適任者がいる』
 そして、わたしが推薦された。


 指先から記憶が〈離れ〉た。わたしは再び暗闇に戻って来た。
 クレイオスの感情がまだわたしの内側に残っていて、少しだけ怖かった。
 他者の芯部に触れる、これが〈シンクロ〉。
 なにかいけないことをしているような背徳感を覚えて、二、三歩、後ずさる。
 怖気づいたわたしを待っていたように、目の前にふわふわとしたものが、ゆっくりと下りてきた。羽根のような、雪のような、淡く白い光に思わず手を差し出す。ふんわりと優しく着地したそれが手のひらに触れたとたん、再び、クレイオスの記憶が経験を伴って再生された。


 わたしが駆けて来る。喋る。クレイオス(わたし)を見上げ、見つめる。説得する。
 ――これは、聖堂で初めて出会ったときの、初めて〈シンクロ〉をしたときの記憶だ。
 クレイオス(わたし)は思う。――犠牲を最小にすべく、いまはこの少女の提案に乗るべきだ。
 〈シンクロ〉を果たしたクレイオス(わたし)の内側に、わたしの記憶が流れ込んで来る。生まれて初めて乗った飛行機のこと、じぃじのこと、パパのこと。
 イノシシ型の誓隷を倒し、昏倒したわたしを見下ろしたクレイオス(わたし)はさらに考える。――最小の犠牲としてこの子を選んだが、それは正しい道徳的な選択だったのか?


 追体験を終えたわたしは押し黙った。
 手の平に乗っていた光は、弾けるように霧散した。
 クレイオスは常々、戦争や諍いは規模の大小にかかわらず、なんらかの犠牲が伴うのは当然だと考えていた。そして犠牲は最小限に留めなければならないから、最小で済む方法を選択しなければならないと考えていた。師匠の説く最善の方法、というわけだ。
 だけど〈シンクロ〉でわたしの人生に触れて、クレイオスは信念を少し改めた。
 クレイオスの半分くらいの身長しかなくて、クレイオスよりもずっと若くて、ろくに勉強もできず、身体能力に優れているわけでもなく、芸術を生み出せるわけでもない、無知で幼稚な小娘ですら、父と祖父の不仲に悩み続けたり、それでも家族の愛を感じたり、驚いたり、泣いたり、笑ったり――ともかく生きているのだ。
 それを――命を――安易に選ぶべきではない。
 その結果、多くの命が救われるのだとしても。
 数の問題ではなくて。
 自分が、問答無用で犠牲者を選別する行為を、クレイオスは正しい行いとは思えなくなっていた。
(うん……そうだね)
 難しいけど、なんとなく理解する。
 長い人生、生きていれば、酷い選択を迫られる場合もあるかもしれない。でもそうでないならば、まだ余地があるなら、なるべく数じゃなくて、誰にでも最良の結果になる選択をしたほうがいい。
 クレイオスは、それを理想と掲げたんだ。
 そんな高潔な彼に、気遣われたことが嬉しくて。
 同時に、制約の厳しい理想を全うしようとする彼を助けたくて、わたしはぎゅっと決意した。
 帰らなきゃ。
 あの場所に、あのひとがいるところへ。
 彼を助けなきゃ。
 そう意志を向けた途端、また引っ張られるような感覚に襲われる。トンネルのような道筋を高速でたどり、わたしの意識は在るべき場所――肉体へと到着した。
「……!」
 途端に、わたしの肺は思い出したかのように酸素を求め、上肢がそれに反応して飛び起きた。
 起きた、ということは、倒れていたのだろうか。
 そんなことを考えた一瞬後、目の前で、巨大な鳥のくちばしがパカッと開かれる。
「わあああああ!!」
 食べても美味しくないよ!!
 脊髄反射で逃げようとしたけど、驚きすぎて体がついてこない。尻もちをついたまま後ずさること一歩、直後に、金属の太い腕がわたしの代わりにくちばしに喰われた。
 そのすぐ後ろにクレイオスの顔があって。
 そこでようやく、自分が彼の左腕に抱きかかえられていることに気づく。
「ッ!」
 今度は別の意味で叫びたくなるけど、ぐっと我慢。
 戦いに集中している彼を煩《わずら》わせるわけにはいかない。
 わたしは及び腰になっていた体に力を入れて、なんとか気合いを取り戻す。
 まずは状況確認だ。
 ペトラの町はずれの遺跡。
 戦闘はまだ続いている。
 敵は一体、かなり大きな鳥型の誓隷。
「気づいたか」
 クレイオスがこちらを一瞥し、腕を大きく動かして誓隷から離れた。
 その光景と重なって――ううん、それは正しい表現じゃない。
 実際に見ている視覚情報とは別のところから、なにもない空間から素早く離れていく光景が脳内で閃く。
 両方とも、見ている場所は同じ地点になるだろう。ただし片方には誓隷が映っていて、片方にはなにもない。
 それに距離感も、角度も、高低にも差がある。
 その差異を脳が処理しきれず、わたしは一体「どこ」にいて「なに」を見ていたのか、よく分からなくなってしまった。
 ――どちらがわたしなのか、どちらもちがうのか?
 その一瞬の戸惑いは、〈シンクロ〉中のクレイオスを、道連れにしてしまう可能性がおおいにあった。
 けれど彼は冷静に対処してくれた。
「落ち着け」
 低い男声《バリトン》がわたしに浸みこんでいく。
「視たもの全てを理解しようとしなくていい。ただ視るだけで十分だ」
「視る、だけ……」
 言葉を反芻するわたしの脳内には、他ならぬ、わたし自身の怯えた顔が映っていた。
 同時に、わたしの恐怖がクレイオスに流れこんでいく感覚をつかむ。
 逆に彼からは、それに打ち勝とうとする意志が侵入してきて、怖気《おじけ》づいているわたしを支えてくれる。
 ――これが〈シンクロ〉なんだ。
 視覚を共有し、その弊害として、お互いの意識が混線してしまう現象。
 三人のおじさんたちが、やたらと危険だと強調していた意味を、わたしはようやく理解した。
 いまこうしているだけでも、かなりしんどい。クレイオスからは、彼が見ているものの他にも、気温や湿度、その他の気候条件、わたしの体温や、心拍数、誓隷の位置を把握するための振動感知など、たくさんの情報がまとめて、なだれこんできそうだ。
 そうなっていないのは、クレイオス自身が情報流失を意図的に止めていてくれていたり、わたしたちの「回線」が細くて、送信が順番待ちになっているから。
 加えて、この前の〈シンクロ〉の経験によって、わたしの体が――正確には脳が――クレイオスの思考に慣れていたり、意識を失っていた間に見た、雨のように降ってくる情報に触れずに済ませる手段を、わずかなりとわたしが会得していることも助けになっている。
 なんにしても、長引けば危険だ。
 わたしたちは互いの意志を視線と、共有意識とで確認し合い、誓隷へと向き直った。
 ……ああ、そうだ。
 これだけは、伝えておかなきゃ。

 クレイオス、わたしはあなたに犠牲として選別されたから、誓隷との戦いに巻きこまれるんじゃない。わたしは最初の〈シンクロ〉のときも、いまだって、自分の意志で望んだんだから。
 だからここにいるの。

 言葉にすれば長くなるのも、意識の下では一秒にも満たずに終わる。
 わたしたちは、本来ならば目で見て確認するお互いの存在を、意識の交感によって同定し合い、言葉を交わすことなく互いの意識を統一した。
 クレイオスはわたしを適度な場所に下ろした。安全のためでもあるし、両手を自由に使うためでもある。
 わたしの眼を通して視る誓隷は、わたしたちのことを警戒しているように思え、その印象もそのままクレイオスに伝わったため、彼もまたホバリングする怪鳥と慎重に向き合った。
 ばさっ、ばさっ……。
 誓隷の翼の音がやけに重たく聞こえる。
 わたしは固唾を飲んで、見晴らしのいいところから二者を見守る。
 いつ動くんだろう。いつ始まるんだろう。
 緊張から、鼓動がどんどん早くムダに強くなっていくのを自覚していると――。
 ばさっ!
 ひときわ大きな音を立てて、誓隷が高く飛翔した。
 わたしが眼でそれを追いかけると、クレイオスは地面を強く蹴って誓隷を追う。
 一瞬、クレイオスも飛んでいるように見えたのはわたしの気のせいじゃなくて、彼の背中からは熱く強烈な気流が噴射されていた。それが彼のジャンプを補佐し、高度を稼がせる。そのまま誓隷と一緒に飛んで行ってしまうんじゃないかと思われたけど、彼はそうせず、敵の足を捉えて怪鳥を独壇場から引きずりおろし。
 このまま飛んで空中戦にもつれこむことも出来たらしい。ただそうすると、わたしの視力の及ばないところにまで戦域が拡大して、誓隷を見失ってしまうおそれがある。
 クレイオスはそれを考慮して、飛び立つ誓隷を強引に引き止めたのだ。
 彼は地上に着地する直前に片腕を持ち上げ、長筒のように変形した手を誓隷に向けた。戦車に取り付けられた大砲のような、マーシトロンサイズの銃砲。それが轟音を立てエネルギーを放ち、怪鳥の翼を直撃する。
 誓隷は悲鳴をあげて大きくのけ反って。
 クレイオスは砲撃の反動に任せて誓隷の足を手放した。
 辺りには誓隷の白い羽が飛び散って、雪のように落ちていく。きらきらと輝いているのは、砕けた誓隷の肉体が誓骸化しているせいだ。かなり細かいので判別しづらいけど、ちゃんと誓骸の青白い色をしている。
 これが一定の大きさをもっていれば、このまま形を保って誓骸塊《せいがいかい》として残るんだけど、小さいものはこうやって空気中に融けてしまうのだ。
 散華のように散る羽、そして誓骸。それらとともに地に落ちた誓隷は、痛むであろう翼を大きく扇いで反撃に出た。
 風が逆巻いてクレイオスを狙う。その突風には誓隷特有の|超自然的な力《ヌミノース》が含まれている。
 クレイオスはとっさに回避行動を取ろうとするも、彼の背後にわたしがいることを思い出し、動作を止めた。
 わたしのことなんて気にしないで! ――とは、残念ながら言えない状況だ。
 誓隷の攻撃から身を守るすべがないわたしに対し、クレイオスの金属質の体は人間の皮膚よりも遥かに硬度が高く、誓隷の攻撃に一定の防御が期待できる。そしてクレイオスは、こういう状況でわたしを前に差し出すようなひとじゃない。
 案の定、彼は誓隷の攻撃を自らの体で受け止めた。ところどころに深い切り傷ができてしまったけど、問題になるほどではないようだ。
 一方、誓隷は地上からやや高いところでホバリングを続けるも、一度よろり、とよろめいて危うく落ちそうになっている。
 ダメージの差は歴然だった。
 クレイオスは間合いを詰め、一気にたたみかけた。
 疾駆しながら砲撃したエネルギー弾は三発とも避けられてしまったけど、それは想定の範囲内。むしろ彼は目標地点に誓隷を追い詰めるために三弾、連射したのだ。
 右へ、左へ、再び右へ。飛び逃げた誓隷はまんまとクレイオスの罠にかかり、彼が持つ長剣の切っ先に向かって鳥首を向けてしまう。
 わたしだったら、絶対に避けることができなくて、串刺しになっただろう距離だ。
 だけど誓隷は、それをギリギリの――わずかに胴体をかすめるだけで、辛くも逃げてしまった。あの傷ついた翼で大した飛行能力だ。
 クレイオスはその誤算に驚くこともなく、再び踏み込んで剣を振り上げる。
 誓隷は少し高度を上げ、転回。ばさり、と両の翼を大きくはためかせ、突風を起した。
 ヌミノースの含有量が多い。受ければ、今度は傷では済まないかもしれない。
 が、幸い、攻防を繰り返しているうちにわたしとの位置が変わっており、今度は避けることができる。
 なんてことはないはずだった。
 実際、クレイオスはそれを易々と避けた。
 だけど続けざまに誓隷は同じ攻撃を繰り返す。クレイオスが避けることを見越して、彼が逃げる先に向かって攻撃をする。
 クレイオスはそれらも回避するけど、五回、六回と回数を重ねるうちに段々危うくなっていく。
(――学習しているんだ)
 あの誓隷はクレイオスの動きを見て、戦いながら彼の戦術を学んでいる。
 平時ならその知能の高さに驚くところだ。あのおじさん三人衆がこの場にいたら、一乗《デカ》クラスの再来に加えて、誓隷の知性についても大興奮していただろう。
 だけどここはいま戦場で、誓隷は敵だ。
 敵の頭が良いのはあまり歓迎できない。
 かといってわたしが手助けできるようなことはない。
 七度目の風にクレイオスはとうとう追いつかれ、彼の左腕がボギンッと嫌な音を立てた。
「……ッ!」
 マーシトロンにも痛覚はあるのだろうか。
 いや――
 これは人間の「痛い」とはちがう。だけど同じくらい不快な違和感がわたしの左腕を貫いていった。
 人間でいうところの骨折みたいな状態で、表皮が剥がれた左腕は内部がむき出しになり、その中でも特に太い鉄骨のようなものが折れていた。
 誓隷はこれを好機と思ったらしく、ギャイッ! と大きくひと鳴きして、より高いところへと飛翔する。そして、一直線に降下。鳥のような体は全体が光を帯びて、一本の槍のように、あるいは流星のように、かなりの速度で落ちてきた。
 ――いけない!
 クレイオスに逃げる余裕はなかった。
 もし直前に腕を折られていなければ、そのことにわたしが不快感を示さなければ、クレイオスはわたしを意識することなく、冷静に対処できただろう。
 ところがわたしが腕に気を向けてしまったため、〈シンクロ〉中の彼もそれに気をとられて、対応が遅れてしまう。
 思考の切り替えの遅れが時間のロスを招いて、彼は「避ける」という一手を失ってしまった。
 左腕は使えず、武器になるのは右手に握った剣一本。盾とするには心許がない。
 それでも彼は唯一の選択肢を――迎え撃つという選択を迷わず選び、体勢を整えた。
 そこには、残った選択肢をやむなく実行した、というような、消極的な姿勢はなかった。
 例えば、いま手に握っていたものがペン一本だったとしても、クレイオスは一切躊躇わずペンを武器として果敢に攻め行っただろう。それくらい彼の頭の中には諦めるという観念がなかった。
『命を守る機会を逃してはならない』
 初めて出会ったあのとき、クレイオスはそう言ってたっけ。
 いまも同じだ。
 クレイオスはわたしから転送される視覚映像に、様々な補正を施し、誓隷の位置をなるべく正確に把握しようと努めていた。
 もし一センチでもずれていようものなら、誓隷のくちばしは簡単にクレイオスの体を貫いてしまうだろうというくらい、危うい場面なのだから当然だ。
 わたしの頭はその計算についていけなくて、さっきからオーバーヒート寸前。立つ、見る、そんな単純な行動すら覚束なくなるほど、頭がくらくらしてくる。
 考えなくていい、とクレイオスからアドバイスされたものの、〈シンクロ〉は、そんな生易しいものじゃない。頭の中に直接、わたしが知らないたくさんの数式や言語、イメージ映像が注入されるので、考えないようにしようとしても、ついつい引きずられてしまう。
 この数字、どこのだっけ?
 あの公式はどうだったっけ。
 いやいやそんな桁の多い数字、わたし覚えられないし。そんな難しい計算式、何に使うのか想像もできないし。「だからそれは『わたしの思考』じゃない」って何度自分に言い聞かせても、また新しい情報が押し寄せてきて、振り出しに戻る。それが何度も繰り返される。
(さすがに、もう……)
 限界――というところで、誓隷もいよいよクレイオスの前に差し迫ってきた。
 頭痛がしてきた頭を押さえつつ、けれど眼を開くことだけは忘れず、見守る。
 そのとき――
 何者かが誓隷に照準を合わせる映像が、脳内でフラッシュした。クレイオスの視界ではなかった。クレイオスと言うは、波長というか感触というか、なにかがちがう。でもクレイオスを経由して見えた映像だったから、わたしの視覚でもない。
 直感で確信した直後、誓隷は、砲弾のような、なんらかの攻撃を浴びて大きくのけ反り、砂煙を上げながら土の上を滑っていった。
 そして往時は建物の壁だったと思われる遺跡にぶつかって、減速、停止。
 よろよろっと起き上がったところに、再び二発の砲弾が叩きこまれ、誓隷はさらに弱り果てた。
「…………」
 なにが起きてるんだろう。
 別の角度からの、別の攻撃?
 クレイオスと鳥の誓隷に集中していたわたしは、そこでようやく、ごおお、という低い音を聞きつけた。
「アルコンの帰還だ」
 クレイオスが低く呟く。彼はそのまま、誓隷に警戒しつつも戦闘態勢を緩和させ、剣を握る右腕を少し下ろす。
 そしてわたしたちの前に、クレイオスと同じくらいの、体積の大きな生命体が着地した。
 クレイオスと同じ金属質の肌、くすんだクロームメッキのような色。肩や腰に赤や青の差し色が入るクレイオスとはちがい、そのひとは濃い緑と土色をしている。潜伏に適した色合いだ。まるで装飾は好まないと断言しているかのように。
 瞳の色すらも緑だったけど、こちらは本体とは異なって爛々と輝き、力にあふれていた。
 強い意志を貫く瞳だった。
 新たに現れたマーシトロンは、ちらりとわたしを一瞥したあと、体の向きを変えて、壊れた遺跡をゆっくり見回した。それから手にした銃砲をピタリと正確に誓隷に向ける。まるで見えているかのように。
「……彼も〈シンクロ〉を?」
「いや、わたしが誓隷の位置情報を送信している」
「えと――アジル波……だっけ?」
「よく勉強しているな」
 肯定と同時に、クレイオスは感心してくれた。
 マーシトロンは個別に生体を保持しているものの、その精神は仲間たちと見えない回路で繋がり合っているらしい。それがアジル波だ。それを用いれば、映像も音声もなんでも、お互いに送受信することが出来る。
 〈シンクロ〉は、このアジル波を応用した技術なのだ。
 緑のマーシトロンはおそろしく正確に誓隷を撃ち抜き――
 誓隷は、今度は遺跡の壁と一緒に吹き飛んで、動かなくなった。
 茫然とそれを見守るわたしの目に映ったのは、かつて誓隷だったものの翼や脚先などの末端から硬化し、全身が青白く、鉱物のように変化していく様子だ。
 かなり大きな誓隷だったから、このまま放っておけば完全に誓骸化し、誓骸塊がとして残るだろう。
 ゆるゆると色を変えていく、儚くも幻想的な光景。
 だけど緑の瞳のマーシトロンはそれさえも容赦なく撃って、誓骸化の途中だった誓隷を粉々に粉砕した。
 飛び散った誓骸の破片が、キラキラと光を反射する。
 辺り一帯に降り注ぎ、露と消えていく……。
「ブリアレオス」
 クレイオスが膝をついて儀礼的な態度を見せた。
 わたしはぼんやりしてて、挨拶を忘れる。
 アルコン=ブリアレオス。
 緑の瞳のマーシトロンは、クリストフォロスが言っていた、ペトラポリスの統治者だった。

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