Magna Mater τρια #001

 リュックを背負って軍用機を降りると、外は宵の口に差しかかっていた。
 東の空には星がまたたいて、西の地平線にはひときわ濃いオレンジ色が残っている。
 乾いた風。
 見渡す限りの平原。
 そこに、スポットライトを浴びた荘厳な聖堂がぽつんと佇んでいた。
 石造りの建物は、遠目でも分かるほどかなり古い。百年や二百年をゆうに超える年数を経てきたと思われる。
 その周囲には武装兵士が三十人くらい配備されていて、骨を惜しまず近傍に目を光らせていた。暗がりでやや不鮮明だけど、装備に小さく「S.Coa.T」と刻まれているのを見逃さない。
「えす……スコー…と?」
「おいおい、エスコートも知らないなんて、どこの田舎者だ?」
 たどたどしい発音をしていると、わたしが降りてきた軍用機から、四、五十代のおじさんたちが降りてきた。一人は七三分け、一人は小太り、一人は眼鏡。
 空港からずっと一緒だったけど、三人とも話しかけ辛い雰囲気をしていたので、言葉を交わすのはこれが初めてだ。
「エスコートって……」
 小首をかしげて訊ねると、彼らは呆れ果てた目を向けてきた。
 彼らの目に黒髪に黒目の小娘が映りこみ、小太りのおじさんが「極東人か」と呟く。
 質問については一応、七三分けのおじさんが、おざなりに答えてくれた。
「マーシトロンと協力関係にある対|誓隷《せいれい》用の戦闘集団だ。おおかた、都市国家《ポリス》のお偉いさんが出動要請を出したんだろう」
「脳筋ぞろいだが実績はあるからな、我々のように」眼鏡のおじさんが顎をしゃくる。そしてわたしを見止めてフン、と口の端を持ち上げた。「――お前はちがうようだが」
 そこでわたしたちを呼ぶ大きな声が聞こえた。
 空港でわたしたちの案内役――名前は忘れた――だと言った女性が手をかざしている。
 二十代後半くらいの、典型的な北大陸の女性だ。白い肌に、ヘイゼルの瞳と茶金色の長い髪。鼻筋の通った、英明な印象の美人。
「これから内部へ案内します。ついてきて下さい」
 わたしたちは先ほどのやりとりを忘れて、案内役の美女についていった。
 大聖堂をぐるりと囲む、ぶ厚い警備の壁をぬけて、開け放たれたままの正面口をくぐる。
 その先はほとんど闇だった。
 通路の両脇に携帯用の光源が設置されているものの、競技場くらいの広さがあると思われる屋内を照らすには決して十分ではない。天井と床の四隅は暗澹《あんたん》とした闇で塞がれていて不気味さがただよっている。気をぬいたら幽霊とか出てきそうだ。
「奥の部屋に行きます。足元に気をつけてください」
 女性――名前が思い出せない――の声は、闇の中に優しく溶けるようだった。ほどよく高くて聞きとりやすい。
 そんな彼女の背中を追いかけることしばらく。
 かなり歩いたところでようやく美女の足が止まり、別の新しい扉が開かれた。
 わたしたちは、その光景に息を飲んだ。
 その部屋は、壁一面――床から天井に至るまで、青みがかった白い結晶に全体を覆われていた。
 半透明の鉱石は厚みがあり過ぎて、壁や床の本来の色をすっかり隠してしまっている。
 持ちこまれた携帯光源の光が結晶によって乱反射して、室内は真昼のように明るく眩しい。それが幻想的な雰囲気をいっそう盛りたてて、わたしは一瞬、ここがどこだったかを忘れそうになった。どこかの洞窟の中とか、秘境の地下とか、そんな場所を夢想した。
 でもすぐ近くに配備された武装兵士の装備に「S.Coa.T」の文字を見つけて妄想をしぼませる。
 やっぱりここは、さっきの平原と地続きらしい。
「これは……なんともまあ……」
「これがすべて誓骸《せいがい》なのか……?」
「信じられん……」
 おじさんたちは口々に言い、呆けた顔で天井や壁を見上げていた。
 わたしも間抜けた顔をしている自覚を持ちつつ、小さく呻《うめ》く。
「……すごい」
「そこの田舎者は、誓骸すら見たことがないのではないか?」
 七三分けのおじさんがわたしを見てにやりと笑う。
 田舎者、という言葉は場合によって、無学な者、という意味も含むから――大昔の田舎は学校の建設が遅れがちだったことに由来している――つまりこれはわたしに対する嫌味だとすぐに察せられた。
 まあ、実際わたしは田舎者だし、彼らと比べれば知識が足りないのも事実なので、そこはあえて肯定も否定もしない。受け流しておこう。
「前に〈巨人の青薔薇〉を見せてもらったことがあります。けど、さすがにここまで大きくはなかったです」
「〈巨人〉……、お前、秋津人か」
 秋津は、北大陸の東端に位置する小さな諸島国だ。ここから民間機で十三時間、時差にして七時間から八時間離れている。
 国土面積は狭く、人口も少ない。国際的にも国としての評価は低い。けど建国神話に誓隷が出てくるから、誓隷の研究者たちには多少なりと名前が知られている。〈巨人の青薔薇〉と名付けられた誓骸は、その道の人間だったら一度は耳にする。
 だからわたしは確信した。
 おそらく、どこぞの教授とか、研究員だとかであろう彼らが、誓隷や誓骸を主軸とする専門家だということを。しかも、それなりの大物なんだろう。国宝を見たことがあるというわたしの発言に対して、さっぱり驚きもしなかったし。
 七三分けさん、小太りさん、眼鏡さん、と、いまは外見で便宜上区別しているけど、ひとりやふたりは聞いたことがある名前があるかもしれない。
「これほどの物が今まで気付きもされなかったとは、世も末だな」
 七三分けさんの呆れ声は、少なくない怒気を含んでいた。研究者として、研究対象が長年放置されていた事実は許しがたいものがあるんだろう。
 一方、案内役の女性に悪びれた様子はない。顔色ひとつ変えず視線を落とし、持っていた資料をぱらりとめくった。
「この辺りには町もなく、人が立ち寄ることはまずありません。建物も数十年おきに手入れをしている程度ですから、発見が遅れたのも当然です」
「見つけたのは?」
「建物の修復の事前調査に来た業者が数名」
 小太りさんの質問に女性が淀みなく答えると、眼鏡さんが面白おかしそうに笑った。
「さぞ、たまげただろうな」
「ええ、いまのあなた方と同じように」
 眼鏡さんの笑いがひっこんだ。
「――皆さまにご確認いただきたいのはこちらです」
 女性はさらに奥へとわたしたちを誘導した。
 硬い鉱物に覆われた床は足音がよく鳴る。五人分と、ときどき警備の兵士の足音とが混ざりながら進むこと少し。
 誓骸で覆い尽くされた屋内の中央に、やけに荘厳な誓骸のテーブルがあった。
 その上に鎮座するのは、仔犬くらいの大きさの結晶だ。
 周囲を覆い尽くす誓骸と比べると透明度が高い。色は青みがかった白。形はアーモンドに似ている。
 わたしたちはそれを四方向から取り囲んで、まじまじと観察した。
「また妙に薄い色だな……」
「完全に独立しているように見えるが――」
 訝しみながら小太りさんが手を伸ばし、軽く押してみる。すると鉱石はごろん、と一回転し、テーブルから落ちた。
「おおっと」
 辛うじて拾ったのは眼鏡さんだ。かなり重たいらしく、緩慢な動きで石を持ち上げると、そのまま角度を変えて覗きこんだり、撫でたり、軽く叩いたりして、注意深く石を検分した。
 わたしは他の二人と一緒にそれを無言で見守り、彼の真贋を待つ。
「ふむ……色味は薄いが、やはり誓骸だろう。特徴がよく出ている」
 他の二人同じ意見のようだ。
 手触り、硬度、屈折率。誓骸の特徴はパパから教えてもらったけど、わたしには見ただけで判別できるほどの熟練の技はない。だから彼らがなにを以《も》って誓骸と断定しているのか分からない。
 どうせなら手っ取り早く、誰にでも分かりやすいよう計測用の機械にかけてしまえばいいのに。
「どうして機械にかけないんです? たしかそれ専用の機械がありましたよね?」
 ダメ元で質問を投げかけてみると、案の定、三人から正気を疑うような半眼を向けられた。
「馬鹿か、お前は。どうやってここに分析器を持ってくる?」
 七三分けさんのしょっぱい顔と口調から、分析器が持ち運びできるような大きさではないことを悟る。まあ、なんとなく想像はしていたけど。
「だったら分析器があるところまで持っていけば?」
「お前はほんっとーに、なにも知らんのだな……」
 小太りさんが疲れたような声を上げた。
「誓骸を他国に輸送するのに、どれだけの認可が必要になると思ってる。運び手には資格が要求されるし、受け入れる側との契約書も必要だ」
「安全で確実な輸送ルートを確保するには警備もいるぞ」
「そんな手間をかけるくらいなら、多少金を積んででも我々のような目利きに出向いてもらった方が手っ取り早いというわけだ」
「なるほど」
 積まれたんですね、なるほど。
「だいたい、分析器で検分できる誓骸の大きさは限られている。こんな大きさは規定外だ」
「じゃあ、小さく割っちゃえば?」
「「「どあほう!!」」」
 うおっ。
「誓骸は大きければ大きいほど価値があるのだぞ!?」
「割ればヌミノース※1反応が鈍くなる、そんなことも知らんのか!!」
「硬度が高すぎて資料用に採取するだけでも苦労しているんだぞ! そう易々と削れるか!!」
 一通りの罵声が終わると、七三分けのおじさんが、心底呆れた調子でしかめっ面《つら》をした。
「まったく信じられん……。――クリストフォロス、といったか。どうしてこんなモノまで呼んだんだ。役に立つのか?」
 クリストフォロス。
 そういえば案内役の女性がそんな名前で自己紹介してくれたっけ。
 今度は忘れないようにと、わたしは頭の中で彼女の名前を何度も反芻《はんすう》する。
 クリストフォロス、クリストフォロス、クリストフォロス……。長い。
 クリストフォロスはわたしたちを一瞥《いちべつ》し、淡々と告げた。
「もちろんです。彼女はタオ・リョーイチローの娘です」
 一瞬で場の空気が変わった。
 名前が出ただけでこのありさま。
 さすがパパ、と、わたしは呆れるのを通り越して半ば感心してしまう。
 それとは対称的に、おじさんたちはそろって苦虫を噛み潰したような渋面を作った。
「……秋津の〈誓骸先生〉か」
「なにかの間違いでは? あの引きこもりに娘だと?」
「ペトラポリスの管理者はずいぶんと切羽詰まっているようだな。あんな変人にまで頼らねばならんとは」
 アーモンド型の誓骸を持った眼鏡のおじさんは、いったん言葉を切って周囲の壁に目を走らせる。それにつられて他のおじさんたちも同じように壁を見渡した。
「まぁ、この誓骸の量では、気持ちも分からんでもないが――」
「ははは、確かに」
 笑ったのは小太りのおじさんだ。
 それに眼鏡のおじさんも続いた。
「単純に顕在《けんざい》量を逆算すれば、元は三乗《キロ》クラスか、それ以上だが……まあ、あり得んだろうな」
「そもそも三乗《キロ》クラスの誓隷なんぞ、おとぎ話も同然ではないか。それよりもここが誓隷の墓場だと言われたほうがよっぽど信憑性があるぞ」
「その墓場というのも前例はないだろう。それより、誓隷が同時に死んだとしたらどうだ?」
「ここで? いっぺんにか? 一体『なに』がそうさせる? 誓隷が病気になったとでも?」
「以前の建物の手入れのときには、なにもなかったのだろう。だったらまずは、誓骸の成長率を差し引いて本来の質量を出すべきだ」
「それよりも、ここで何が起きたのか調べたらどうだ。これだけの誓骸だ、間違いなくなにかがあったはずだ」
「一体どうやって! 手がかりもないではないか」
 三人の議論はどんどん熱を帯びてきて、わたしの存在は見事に忘れ去られた。
 輪から溢《あぶ》れたわたしは、自主的に何歩か後ろに下がって、三人を少し遠巻きに見守る。
 一体いつ終わるのかなぁ、なんて、ぼんやりと考えて、あっちこっちに視線を巡らせて退屈をまぎらわせていると、人の叫び声のような音がかすかに聞こえたので首をひねった。
「ん……?」
 部屋の、出入り口とは反対の、奥の方から。あの誓骸の壁の向こうから。
 気のせい? でも確かに聞こえたような……。
 わたしが半歩、足を進めると、
「おい、どうした」
 少し離れたところで警備をしていた兵士が、通信機器に注意を向ける。
 ――そのときだった。
 パッカアアアァァン!!
 小気味いい音を立てて、誓骸に覆われた壁が吹き飛んだ!
「「「んだぁ――――!?」」」
 驚愕に目を剥く、おじさん三人。
 彼らが言いたいことは分かる。そんなバカな、だ。
 誓骸は天然鉱物としては二番目に数えられるほど硬い。それが簡単に、とても良い音を立てて砕けたのだ。粉砕とまではいかずとも、河原の石くらいには小さくなってしまった。
 一体どれだけの力が加えられたのか。
 誓骸が砕けたという事実と併せておののく彼らは、事件が起きたその場所――部屋の奥へと目を向けた。
 もちろん彼らだけじゃない。室内で警備にあたっていた兵士たち、およそ十名弱。それから案内役のクリストフォロスも驚愕しながらそちらを確認した。
 ついさっきまで壁だったはずなのに、大きな穴が空いていて。
 さらに、誓骸になり果てる前の、まだ生きてる誓隷がいた。
 端的に一言で表現するなら、イノシシ、だ。
 鼻の面積が一般よりも広く、左右から合わせて六本の鋭い牙が伸びている。
 体はかなり大きくて、高さはわたしのほぼ二倍。一般に一乗《デカ》クラスと呼ばれているサイズに、兵士を含めた誰も彼もが動揺し――
「うおおおぉぉう! 一乗《デカ》!! 一乗《デカ》クラスではないか!!」
「なななんとぉう! まさか千体に一匹程度と言われている誓隷を、こんな間近で見られるとわぁ!」
「ささささんぷる! サンプルだ! サンプルをとるのだぁ!! キット! 採取キットを持ってこい!!」
 兵士たちが激しく動揺した。
 いろんな意味で。
 わたしも、さすがにこれには閉口した。
 あなどりがたし学者根性。
「なにをしていらっしゃるんですか! 早く避難を!」
 いち早く我に返ったクリストフォロスが三人を叱責するも、興奮しきった彼らに常識は通用しない。
「なにを言うか! 一生に一度、お目にかかれるかかかれないかの瀬戸際だぞ!!」
「ここで会ったが百年目!! 命が惜しくて誓隷の研究がやってられるか!!」
「さんぷる! さんぷるさんぷるさんぷるぅー!」

 お、オオオォ……ン!

「「「………………」」」
 丹田《たんでん》に響く、低く、怒気に満ちた唸《うな》り、人間には到底発せられない音。
 空気を震わせ、広がる波は、三人から急速に熱を奪っていったようだった。
 青ざめ、ようやく現実に戻って来た彼らは、己らが置かれている状況を知識の詰まった頭で正しく理解した。
 目の前に、誓隷の鼻面。ぶほっと、鼻息が彼らの髪を撫《な》でる。
 距離は、せいぜい大人の腕一本分くらいしかない。
 人間の顔ほどの大きさの誓隷の目は、しっかりと彼らを捉え、離れない。
「「「……っホひ――――――!!」」」
 三人の珍妙な絶叫を皮切りに、静止していたあらゆるものが動き始めた。
 兵士たちは手にした銃で一斉に攻撃を開始。
 非戦闘員であるおじさん三人とわたし、クリストフォロスは、脱兎のごとく逃走。
 イノシシに似た誓隷はわたしたちを追いかけてくる。兵士たちの攻撃を歯牙にもかけず、猛然と。
 それがもう、怖いのなんの。
 誓隷の体高はゆうに三メートルを越えているし、迫力があるし、質量においては圧倒的だ。その四つ足が床を踏み荒らすたびに床が震え、その振動は逃げるわたしたちの足にも伝わってくる。
 耳をつんざく、応戦の銃撃音。
 誓隷はものともしていないけど、兵士たちが使っている銃は、いちおう、人間を致死させるだけの威力を持っている。流れ弾にでも当たれば、それなりに痛い。
 そして、痛いのは嫌だ。
 わたしたちは必死に走って、走って、逃げた。
 転びつつ、もつれつつ、なんとか走って、ようやく出入り口まで来た。
 先頭を走っていたクリストフォロスが勢いよく扉を開き、おじさんたちと一緒に薄暗い隣室へとなだれこんだ。そして閉門。
 まだ部屋には兵士の皆さんが残っていたのにいいのかなぁ……なんて思ったのも束の間。
 ぬめっとした、重い空気の蠢《うごめ》きが、わたしの肌を撫でた。この感覚には覚えがある。誓隷がヌミノースを流動させ、自然の動きを変えて、超自然現象を起こすときのあれだ。
(マズい)
 直感した、その瞬間。
 ぱっかあああぁぁん!
 扉は壁ごと破壊され、わたしたちはその衝撃で四方に吹き飛ばされてしまった。
 粉砕された扉が礫《つぶて》になって、体のあちこちにぶつかる。痛い。けどそれ以上に怖い。だって体が浮いている。感覚的には数十センチくらいだけど、実際はもっと高いかもしれない。
 着地はどうしよう。格好良く、華麗に、なんて、無理。
 せめて致命的な怪我になりませんように!
 祈りながら、わたしは背中のリュックが潰されないように、気をつけて体を丸めた。荷物の心配ができるあたり、まだほんの少しだけ余裕があるらしい。
 衝撃は右肩からきた。
「んぐ!」
 肺から押し出された空気が妙な声になって口から出てきた。
 体は一度バウンドし、再び右腕から着地。慣性で床を滑り、ごちん、と、大きめの瓦礫がわたしの頭にぶつかった。
「いっつぅ……!」
 痛い。
 だけど悶絶《もんぜつ》している場合じゃない。
 すぐに顔を上げて、周囲を確認。部屋の状況、わたしの現在地、誓隷の位置。全体をひと通り見渡して、わたしは緊張を高めた。
 来る時は一本道でそれなりの明かりが確保されていたけど、さっきの衝撃で室内の照明装置の大半は壊れてしまっていた。
 破壊を免れたいくつかの照明と、壊れた壁からさっきの部屋の明かりが洩《も》れているおかげで少しは視界がきくものの、万全とは言い難い。
 四人は無事だ。幸い、酷い怪我をしている人はいないようだった。みんな呻きながらも自力で起き上がっている。擦り傷とか切り傷とか小さな出血があるみたいだけど、それはまだ許容範囲。むしろあれだけ派手に吹き飛んで、よくこれだけで済んだなと思う。
 眼鏡のおじさんなんて、その手にしっかりとアーモンド型の誓骸を抱いているし……。さすがというか、執念というか。見上げたその根性に、わたしは内心、呆れと感心を綯《な》い交《ま》ぜにした。
 誓隷はわたしたちの後ろだ。ぶるるんと首を振って眩暈を振り切るような動作をしている。扉の周囲にびっしり這い固まっていた誓骸も一緒に壊した衝撃が残っているのかもしれない。
 吹き飛ばされたおかげでイノシシの誓隷とわたしたちの間にはそれなりの距離が空いていたけど、安全とは言い切れない微妙な間合いだ。
 それを確認したクリストフォロスは、危機感を覚えたのだろう、鋭く叱咤《しった》を飛ばした。
「走って!!」
 雷に打たれたように体が反応する。
 命の危険がともなっているせいか、わたしたちは俊敏だった。
 クリストフォロスもハイヒールを履《は》いているとは思えないほど速い。
 三人のおじさんたちはそれ以上に機敏だった。
「「「ひいいいぃぃ!」」」
 速ぇー。
 いやいや感心してる場合じゃない。
 そんなわたしたちと入れ違うように、聖堂の外から警備兵が乗りこんで来た。
 背後の大穴からも奥の部屋で警戒していた兵士たちが出てきて、誓隷は二方向からあっという間に囲い込まれる。
 陣形を整えた兵士たちは「射出!」という合図であらゆる角度からなにかを発射させた。
 直後に聞こえたのは、ひゅんひゅん、という風切り音。ちらりと背後を振り返ると、頑丈な紐に似たなにかが誓隷を絡め取る様子が見えた。あれで誓隷を拘束するつもりなんだろう。
 だけど誓隷が大人しく捕まってくれるはずがない。全身に巻きついた拘束紐を、鼻息も荒く、力任せに引っ張りだした。
 ぶちぶちぶちっと、暗闇に響く嫌な音。
 じりじり後ずさる警備兵たち。
 結局、大した時間も稼げず紐は千切れ、誓隷は再び暴走を始めた。
 警備の人たちはわたしたちを逃がそうと、今度は銃を使って誓隷を引きつけようとする。でも、とても効果ありとは言い難い。
 誓隷は足元の兵士たちを蹴散らし、時には薙ぎ払い、時には無視し、走るわたしたちを追ってきた。
 戦線はあっという間に崩壊して、統率が失われつつあった。
 こういった状況に備えて日頃から訓練を積み、こういった場面に慣れているはずの歴戦の警備兵が、だ。わたしよりも遥かに経験豊かであるはずの彼らがパニックになるのを目撃して、今さらながらに焦りを覚える。
 踏み潰されるか、牙に串刺しにされるか、喰われるか、また吹き飛ばされるか。
 追いつかれれば、そのどれかしかない。
 どれも、嫌だ。
 嫌!
「わ!」
 飛び散った小さな瓦礫《がれき》を絶妙な角度で踏んでしまい、体勢が大きく崩れてしまった。しかも、とっさだったのでまともな受け身もとれず、無様に床に転がる。
「痛《いた》――」
 どこをぶつけたのか、自分でも分からないくらいだった。あっちこっちが痛い。
 歯を食いしばって、なんとかうめき声を喉の奥に押し戻すけど、床に横たわった体が嫌な振動を受信して我に返る。
 これはイノシシのあの誓隷が猛然と迫ってくる足音だ。
 腕を支えに上半身を起こす。
 後ろを振り返る。
 すぐ近くに、あの巨体があった。
 逃げても――
 間に合わない――
 追いつかれる――
「…………!」
 ぎゅっと体を縮めて、わたしは恐怖に耐えようとした。目を瞑《つむ》り、来るべき時に備えた。
 だけど、いつまでたってもそれは訪れない。
 代わりになにか――重い物が床に着地したような音、なにかを受け止めるような鈍い音――聞き慣れないそんな音を聞いたような気がした。空気が動き、わずかな風が頬をくすぐった。
 だけど気のせいかもしれなくて、怖くて、目を開けられない。
 なにかがおかしいと思いながらも、それを確かめる行動に移れない。
「……っ」
「目をそむけるな」
 少しくぐもった、それでいて聞きとりやすい、低い男声《バリトン》の世界共通言語《ワールドカバー》。
 わたしは目を開けた。
 大きな背中が、わたしを守ってくれていた。
「まなこを開かねば恐怖が牙を剥《む》く。目をそむけるな――命を守る機会を逃してはならない」
 ……人間じゃ、ない。
 その背中は、明らかに人間の高さを越えていた。二メートル……三メートルくらいだろうか。
 頭があり、体があり、腕が伸びて指がある。身体のパーツは人間と同じ。けれどその表面は金属の光沢を帯びていて、その全身で、あの強烈な破壊力を持った誓隷を体当たりで止めていた。
 人の限界を遥かに超えた力技。
 誓隷と直接相対する勇敢な精神。
 それを実行する決断力と行動力――。
 わたしに呼びかけたその声は、怯《おび》えるわたしを包むように優しかった。空よりも、もっと広く、太陽よりも暖かく柔らかく、傷ついた者をいたわる慈愛。
 神にあらざる――人にあらざる――
 これは――これが――
「マーシトロン……」
 これが……。
 半《なか》ば虚ろに呟いた。
 圧倒的な質量に気圧されて、自分が置かれている状況を忘れて、壁のような背中を見つめた。
 パパから、パパの親友の話を聞かされるついでに、マーシトロンという種族についても聞きはしたけど……。
 だけどいま目の前にあるのは、話に聞いていた以上の圧倒的な存在感だ。
 ときどき、パパは親友を尊敬するあまり親友が属する種族を誇張しているんじゃないかと疑ったけど、ちがった。間違っていたのはわたしのほうだった。
 おおおぉぉぅうう!!
 目的を阻まれた誓隷が怒りを放ち、わたしは物思いを打ち切った。
「動けるか?」
「あ、うん。……はい」
「では逃げろ。そろそろ限界だ」
 肩越しに投げかけられる言葉とともに、バキン、という、金属製の破砕音が耳に届く。
 イノシシの誓隷は、あの硬い誓骸を粉砕してしまうくらいの破壊力を持っているのだ。
 それだけのパワーを止めている彼の負担は計り知れない。
 わたしは慌てて体を起こし、駆け出した。
 走りながら振り返ると、誓隷がマーシトロンにひと投げされているところだった。
 横に流された誓隷は、勢いを殺さず、くるんと一回転し、短い脚を駆使してなんとか立ち上がる。
 両者は再び対峙し、一瞬停止。つかの間の沈黙のあと、誓隷がぶほん、と鼻息をひとつ放って全身に薄蒼の光をまとった。
「ヌミノースだ……」
 小太りのおじさんが、瞳を潤ませながら感激にわななく。
「美しい……! やはり生体のヌミノースは格別だ」
 ついさっきまでその誓隷に追いかけられてヒィヒィ言ってたんだけど、不都合な過去は早々に記憶から消去されたらしい。
 くだんのヌミノースの持ち主は、光の帯を引きながら、会心のダッシュでマーシトロンに追突。
 誓隷の突き出た鼻がマーシトロンの胸部を圧迫し、勢いに押されてマーシトロンは滑走した。転びこそはしなかったものの、そのまま壁際まで押しこまれ、あの大きな背中が聖堂の壁に激しく打ち付けられる。
 衝撃で聖堂の全体が小さく揺れて、天井から小石や埃がパラパラと落ちてきた。
 あっという間に不良になる視界。
 だけど、両者の攻防は途絶えない。
 マーシトロンは誓隷の牙をつかみ、振り上げた右手を槌のように下ろす。なんてことのない動作だ。攻撃というにはいささか根性が足りない。
 ところが次に起きた現象は、そのさりげなさを裏切った。うぃん、と腕が割れて内部からじゃきん、と大剣が出て来くる。
 マーシトロンは再編成された手でそれをしっかりと握った。
 剣の全長はちょうど、わたしの身長と同じくらい。両刃で、肉厚、直線的。その全体は熱を帯びているように、オレンジ色に輝いている。
 それは勢いを保ったまま振り下ろされ、誓隷の脚の付け根に命中。
 誓隷がぷぎゃぁ、といななき、前両足を大きく上げて威嚇すると、そのままいくらか後退して頭をぶるぶると振った。その仕草はどちらかというとイノシシよりもイヌっぽくて、ついイノシシの属性はなんだったっけと呑気《のんき》に考えてしまう。
 一方、マーシトロンの彼は、めりこんでいた壁から離れ、剣を構えて体勢を整えていた。そしてぐっと身をかがめたかと思うと、大きく一歩踏み込み、捻転を加えながら剣を振った。その狙いがどこに定められているのか、ここからでは分かり辛い。それにその攻撃はまるで当たらなかったから、今さら剣先の狙い所を確かめるのは無意味だろう。
 イノシシの誓隷はマーシトロンが体勢を整えたのを確認するや否や、浅く開いた口からヌミノースを凝縮させた攻撃を放った。
 こうっ、と音のようなものが耳に届くよりも早く、ヌミノース特有の光が屋内を一瞬、明るく照らす。
 そして、着弾。
 聖堂には派手な轟音が響き、もうもうと立ち込めた砂煙が眼界をさえぎった。だから目視確認できなかったけど、音から察するに、誓隷の攻撃は当たったと思われた。
 明かりも不十分で、視界も封じられ、わたしたちは成す術もない。
 部屋の隅にいたクリストフォロスや三人のおじさんたちにようやく追いついたわたしは、煙にまかれて顔をしかめる。
 ちらりと見えたのは、白い飛び道具がマーシトロンを狙って飛翔したところだった。その正体は誓隷の六本あるうちの二本の牙で、要は誓隷の攻撃なんだけど、マーシトロンの剣に一旦弾かれて二つとも明後日の方向に飛んで行ってしまった――かと思ったら、追跡機能を備えているかのように自主的に軌道を変えて、今度はマーシトロンの背後を強襲する。
 マーシトロンも、まさか戻ってくるとは思わなかったらしい。辛くも回避行動をとったが対応は遅れ、一つはかすめるようにマーシトロンの腕を割き、一つは剣の先端をわずかに削った。
「む、」
「いかん」
 七三分けのおじさんと小太りのおじさんが唸《うな》った。
 わたしには、なにがなんだか分からない。
 わたしの目には、愚直に突っこむしか能がなさそうだった誓隷が、マーシトロンに一撃を浴びせただけにしか見えなかったんだけど……。
「まさか〈シンクロ〉していないのか? エンハンサーは、なにをしている?」
 眼鏡のおじさんがクリストフォロスを振り仰ぐと、玲瓏な女性は眉根を寄せて首を横に振った。
「Mon Dieu!!」
 小太りのおじさんが両手を挙げ、大げさに怒った。発した言葉の意味は分からないけど、彼の驚愕と憤慨は伝わってきた。
「なにをやっとるんだ、エスコートは!! 誓骸が見つかった時点でエンハンサーも派遣すべきだろうが!!」
「ということは、彼は誓隷を視ずにあそこまで戦っているのか。なかなかやるな」
「感心しとる場合か!! ええい、仕方がない! おい、そこの田舎者!!」
 ぐい、と小太りのおじさんに腕を引っ張られ、わたしはその場でたたらを踏んだ。
「いいか、話しをよく聞け。私の声が聞こえているな? よし」
 いや、よし、って。わたしまだ何も言ってないんですけど……。
「誓隷先生の娘ならばおぬしも知っておろうが、誓隷はヌミノースの具象存在だ。ヌミノースは自然界に存在する未知のパワーのことで、誓隷はこの力を使って火や水を思いのままに操っている。要は我々人間やマーシトロンとは大幅にちがうということだ」
 基本中の基本知識を、おバカで小さくて田舎な子どもに教えこむように、小太りのおじさんが力説した。
 そのおじさんの首根っこを、むんず、と掴まえて引っ張った七三分けのおじさんが、今度はわたしの目の前に居座る。
「さてその誓隷は、なぜかマーシトロンの目には映らない。見るという原理は同じはずなのだが、なぜか視えないらしい」
 うん、それも聞いたことあるんだけど……。
 よくよく考えたらすごいことだよね。あのマーシトロンの彼は、誓隷が視えない状態で戦っていたんだから。うん、すごい。
 なんて感心している間に、再び小太りおじさんが目の前に割りこんできた。
「理由はいろいろあるが、どれも推測や憶測ばかりだ。中には与太話もいいところの笑えるやつもあるが、一番有力なのはマーシトロンのヌミノース抵抗率が高すぎて視覚を妨害しているという仮説がある」
「いまはそれはどうでもいい。とにかくマーシトロンは」
 今度は眼鏡のおじさんですか。アーモンド型の誓骸をしっかり両腕に抱えたままだし。
「――苦肉の策として、人間と視覚を共有することにした」
「視覚共有プログラムだ」
「――〈シンクロ〉だよ」
「人間の神経回路から、マーシトロンが情報を吸い上げる」
「――〈シンクロ〉には危険が伴う」
「情報は双方向間で交信される」
「――思考が混線してしまう場合もある。お互いの思考が」
「人間のそれはマーシトロンに影響しない。マーシトロンは我々より遥かに優秀な頭脳を持っているからだ。人間の視覚を三次元的に捉えることが出来る」
 七三分けのおじさんも参戦してきた。
「問題はその逆だ。マーシトロンの思考は高速かつ緻密で、人間の脳では処理しきれないのだ」
「ましてや自分自身の思考処理も同時並列で行わなければならない」
「つまり〈シンクロ〉が危険なのは人間にとってだけ」
「だが〈シンクロ〉しなければ、マーシトロンは誓隷を視ることができない」
「よって〈シンクロ〉を行う人間は〈シンクロ〉に伴う視覚、思考共有の訓練もすることになった」
「それが強化人間《エンハンサー》だ」
 もう誰がなにを喋ってるか分からないんですけど……。
「だが必ずしもエンハンサーだけしか〈シンクロ〉できない、というわけでもない」
「普通の人間でも可能だ」
「危険なだけで」
「だからお前が行くのだ!」
「はぁ!?」
 迂遠な――というか、必要最低限の説明が終わり、ようやく結論にたどり着いたところで、わたしは思いっきり批難の声を上げた。
 一体なにを言い出すかと思えば!
「ちょ、なんでわたしが!!」
「私はぎっくり腰だ!」
「痛風だ!」
「高血圧だ!」
 じじぃどもめ!!
「あの、それでしたら私が……」
 おずおずと割り込んできたクリストフォロスを、眼鏡のおじさんが首を振って拒否した。
「訓練を積んでいない人間が〈シンクロ〉する場合、脳処理に余地のある子どものほうが適応能力が高い。つまり若ければ若いほどいい」
「若ければ……」
 眼鏡さんの言葉を反芻し、クリストフォロスはずううぅぅん、と落ち込んでいく。
 ……うん。ごめん、慰めたいけど、わたしが言ってもただの嫌味だよね。
「お前がゆけ。彼もこちらの意図に気づいてくれるはずだ」
 眼鏡のおじさんの目は、あのマーシトロンに向けられた。信頼の目だ。
「でも……」
「我々の中で最も若いお前が一番危険率が低い」
「〈シンクロ〉も短時間なら、危険はさらに下がる」
 小太りのおじさんの「我々」という言葉の中には、クリストフォロスや、わたしたちの周りを守ってくれている警備兵も含まれているようだ。
 眼鏡のおじさんの真剣な目は、いまこの場にいる人間の中で一番、わたしがベストなんだと訴えていた。
 正直、文句を言いたい。
 だけどこれだけはハッキリしていた。
(このおじさんたちはダメだ)
 いろんな意味で。
 年齢も年齢だし、体力的な面で限界なのはたぶん事実。若輩に難事を押しつけるあたり、大人としてもダメだと思う。
 ただ彼らは専門家で、事、誓隷に関する知識は正しい。
 クリストフォロスの申し出を退けたのも、それだけ脳の機能――若さが重要、ということなのだろう。「わたし」という選択肢は、あらゆる可能性を公平に天秤にかけた結果「一番成功率が高い」結論なのだ。
 それに、周囲の期待の視線も重い。
 わたしはうなずくしかなかった。
「……分かった」
「〈シンクロ〉は視神経の固有信号を読み取る必要がある。お前の額をマーシトロンの額に重ねろ。あとは向こうがやってくれる」
「うん」
 眼鏡さんの注意事項を脳内に刻み、短く頷く。
 クリストフォロスの指示で、わたしの周囲は兵士たちに守り固められた。
 わたしは、あそこに戻るのか、と、薄暗さの向こうを見据える。
 するとこちらの視線に気付いたように、マーシトロンが一瞬だけこちらに目を向けた。
 暗闇の中、清廉な蒼い光が星のように浮かんでいる。
(……目、蒼かったんだ)
 さっきは背中ばかりに注意が向いてて気づかなかった。
 誓骸の白っぽい青ともちがうし、海のものとも空のものとも似つかない。本当にきれいな蒼だ。
 そんなことを考えているうちに、吸い込まれるように、自然とわたしの足は動きだしていた。
 背後から、クリストフォロスの応援とか、おじさんたちの注意喚起が聞こえてくるけれど、わたしの意志は誓隷と戦い続けているマーシトロンに注がれていて、あまりハッキリとは聞こえなかった。
 小さな瓦礫に転びそうになったり、大きな瓦礫に前を塞がれたりした気がするけれど、よく覚えていない。
 気がついたら、わたしは誓隷対マーシトロンの最前線に立っていて、息もすっかりあがっていた。
 マーシトロンは剣と腕力を尽くして誓隷を遠くへ払いのける。
 そしてわたしたちは向き合った。
「危険を伴う」
「分かってる」
 ほとんど遮るようにうなずいた。
 正直、おじさんたちの説明はまるで理解していない。あの人たちは各々《おのおの》の主張が強すぎる。そのせいで話しの前後を繋げられず、結局〈シンクロ〉というものがどんな行為なのか、よく分からないままだ。
 それでもわたしはうなずいてここに来たんだから、いまさら後戻りは出来ないし、するつもりもない。
 なにより、目の前のマーシトロンの彼がが言っていた。「命を守る機会を逃してはいけない」と。それは戦いの場面においてもっとも正しい目標だ。
 だからわたしは受諾する。
 マーシトロンはゆっくり首肯して、わたしよりも一回りは大きい頭部を近付けてきた。
 わたしはちょっとだけ背伸びして自分のおでこを差し出した。
 ごちん、と。
 けっこう、痛かった気がする。
 でもよく覚えていない。
 額が触れあった、と感じた途端。
 わたしの視界の端には、イノシシの誓隷が映り込み――
 それを敵だと認識し、意識するとほぼ同時に――
 コップに水を注ぐような勢いで、映像とも、文字とも思えない、大量の情報がわたしの中に流れ込んできた。
 どことも分からない風景。
 誰とも分からない声。
 会話、単語。
 色。
 感触。
 それが時系列もなく、一緒くたになって、一瞬で、内側に――頭の中を占領する。
 それらの中から、わたしがきちんとした場面として認識できたのはほんのわずかだ。
 マーシトロンの彼は、わたしとの〈シンクロ〉に、わたしの想像していた以上にためらっていたこと。わたしの命と精神を重んじてくれていたこと。
 わたしのことだけじゃない。暴れている誓隷から、わたしたち人間を守らなければいけない、という使命感。生命に対する高潔さと、正義感。
 とても尊敬しているマーシトロンがいること。
 その人物の面影のようなものがよぎったところで、彼のこれまでの経験、時間の奔流の大量さを直感し、わたしは考えるのをやめた。これ以上、これらの情報を知覚しようとすると、わたしの頭はもたないだろうと悟ったからだ。
 同時に――
 わたしの中から、様々な情報が吸い上げられていく感覚が全身を貫いた。
 故郷を出て、生まれて初めて飛行機に乗ったこと。
 誓隷と交流する父の背中を見て育ったこと。
 祖父が作る煮込み料理が好きなこと。
 それらの記憶だけでなく、付随する高揚感、知識、味、感触……それらが一種のデータに換算されて、わたしではない別の場所に飛び出していく。
(あのひとのところに……)
 ぼんやり考えて、遅れること少し。
 わたしは(あっ……)と声をあげて、慌てて|それ《・・》を追いかけた。
 わたしの内側から飛び出た情報が彼のもとへ行くということはつまり、飾らない素のままの、まさに丸裸にされたわたしの情感が――…。
(……ッ!! むりむりむりムリムリ!!)
 悲鳴と一緒に必死に追いかけるけど、もちろん間にあわない。
 それでも諦めきれず、追いかけて追いかけて、行きついたその先は広大な空間だった。
 軍用機を降りた後に見た、夕焼けの平原のような場所。だけどここは、あそことはちがって色味もなにもない。ただの空間。真っ白な余白。
 わたしはそこを、ふわふわとなされるがままに漂っていた。
 なにをするにも常にいっぱいいっぱいで、必死にやっても追いつかないわたしとちがって、彼にはまだまだ余地があるのだ。
(ああ……これは……)
 ――人間には危険――
 ――マーシトロンには――
 三人のおじさんたちの言葉を思い出す。あれは、こういう意味だったんだ。
 周囲にぐるりと、なるべく遠くまで知覚の翼を広げる。
 するととても遠いところに、入り口のような出口のような――ともかく、別のところに通じる扉のようなものを感じた。
 興味を惹かれたけど、ためらいもあった。人間としての本能のようなところから、警告のような不安が足を引っ張っている。
 そのとき、ぐい、と、急にどこかに向かって強く引き寄せられた。
 来た道を戻るとか、そういったプロセスはすべて飛ばして、わたしは己の自我という、この精神があるべき場所に瞬間移動した。
 途端に肉体の感覚が戻ってきて、喉が引きつったように動き、酸素を肺に送り込んで、わたしの目はぱっちりと開く。
 そして見開いた目の、視界の九割を、四十代、五十代のおじさんに占領されていることに気づいて、驚き、おののいた。
「うっわああああ!!」
 どっしん!
 少し高いところから落ちて、お尻を激しく殴打。
「痛――」
 さっきもこんなことがあったばっかりなのに……。
 おしりをさすりながら、そんなことを考えて、わたしはハッと慌てて周囲を見まわした。
 そこはすでに戦場ではなかった。

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※1 ヌミノース 誓隷や誓骸の周囲に見られる発光現象。誓骸の能力と関係があると思われている。目下、研究中。