MAGNA MATER (マグナマター) -朱色の指揮者-  【66】
 ――五年後。

 水っ気を控えめに含んだ微風がさわさわと駆け抜けていく。
 草原の草を撫で、坂を駆け上り、やがて大空へ――。
 ピイピィ、ピィ。
 さえずっているのは餌を求める鳥のヒナだろうか。いささかに元気がよく、鳴き声もよく響く。
「――ぁーん」
 その声に混じり、風に乗って耳朶に届く、よく聴き慣れた声。
「にーちゃーん」
 ぱちりと瞼を開き、もう一度耳を澄ますと、
「兄ちゃあーんっ」
 先ほどと同じ声、同じ調子で聞こえるものだから、彼は思わず口の端を持ち上げ笑った。
 反動をつけ、「よっ」と声を出して上肢を起こす。それから立てた右膝の上に右腕を乗せ、背後の土手を見上げると、ちょうど彼の弟が両手に腰を当ててぷうっと頬っぺたを膨らませた姿が見て取れた。
「なんで返事しないんだよっ。さっきからずっと呼んでるのに!」
「悪ぃ、寝てた」
 悪びれもせず軽く謝ると、弟はむう、と口を尖らせる。もうとっくに中学生になったというのに、あまりにも愛らしい顔だ。弟離れができていないと両親は嘆くが、彼に言わせれば、こんな可愛い弟を放っておけるなんてどうかしている。
「こんなところで何してんの?」
 土手の上の弟を手招きし、隣に座らせた彼は、「んー?」と気だるそうにひとつだけ返事をして真上を見上げた。
 真っ青な空に、白い雲。その高いところを、つがいの鳥がぱたぱたと渡っていく。大気を気儘に駆け抜ける風は、今日は少し強めらしい。西から東へ流れる雲は、いつもよりも足早に駆け去っていく。
「……今日も来ねーなーって」
 それは返事ではなく、ほとんど独りごとだった。
「……オレもそろそろヤキがまわったかなー……」
 約束までやっと五年。いや、もう五年? ――ともかく、残り五年だ。あと半分残っているこの状態で、いつまで我慢できるだろう。もともと我慢が足りない気質なのだから、逆に言えばよくここまでもったなと感心してもいい。
 あるいはあの男は、この性格を見抜いて十年という具体的な数字を提案したのかもしれない。明確な目星がなければ、いつ来るとも知れない不安に押しつぶされていたかもしれない。
「……それって、兄ちゃんの「向こう側」の友達のこと? ……兄ちゃん、またいなくなったりしないよな?」
 不安に揺れる弟の声音に気付き、彼は目を丸めて弟を見下ろした。
 あちら側――あの異世界から戻ってきたとき、こちら側ではあちらで過ごした期間とまったく同等の時間が流れていた。当然、その間彼は行方不明扱いされていたのだ。正確には、あちら側へ行く要因となった地震で死亡したものとされていて、阿蘇の山中で発見された際には身内を始めとし大騒ぎになった。
 両親からしてみれば、死んだと思っていた息子が元気に現れたのだから、失神されてもおかしくないわけで。
 とはいえ、残念ながらあちら側の世界のことは軽々しく口にはできなかった。四道がいればうまく説明するか誤魔化すかしてくれたのだろうが、残念ながら四道はあちら側に残ったままだ。
 そして彼にはあちら側のことを非現実感なく伝えられる自信がない。
 病院で検査入院することになった彼に、両親に詰め寄られても真実など当然言えず、結果、記憶喪失なんて使い古された手法で押し通すしかなかった。さらには、記憶を取り戻すのは亡くした場所で――なんて言って、家族を半ば無理矢理に引っ越しさせて、就職先もこちらで見つけて。
 すべては、約束の日に、彼らを一番最初に見つけられるようにするためだ。
 この場所はあちらの世界と強く結び付いている気がする。オズマがいた地であり、四人があちら側へ飛ばされた地、そして帰還が叶った地。
 ゆえに、彼らを待ち続けるにはここが最適だと思い、彼はここに腰を据えることを決めた。
 ただそれらを記憶喪失という理由で誤魔化すには、弟は少し勘が良すぎた。
 会えなかった間に、「可愛い弟」から「少し生意気で可愛い弟」に成長したコイツは、死人からゾンビよろしく帰還した兄に四六時中べったりで、兄の些細な変化を見逃さず兄の秘密にささやかに気付いてしまった。
 下手に騒がれたり、想像されるよりはいいかもしれないと、口外を禁じてあちら側の世界の話をしたのは、再会から一か月も経っていなかった。
 いくら小さいとはいえサンタクロースの存在も怪しむような年頃だ。そう簡単には信じてくれないだろうと思っていたのだが、意外にも弟はそれをあっさり受け入れ、あまつさえ簡単に信じてしまう。それどころか、弟の冒険心を妙に刺激してしまったらしい。結局、洗いざらい白状させられ、気がついた時には、弟は頼りになる共犯者になっていたのだ。
 より身近だからこそ、弟の不安はよく分かる。
 失うことへの怖れ――それは彼もあちら側の世界で実感したことだった。
「いや、いなくならねぇよ。そもそも向こう側に行きたくても行けねぇからなぁ……」
 遠い目で、もう一度見上げる、空。
 空の色も、雲の動きも、鳥の鳴き声も変わらない。
 変わらないのに、異なる世界。
 たった五年――いいや、もう、五年?
 つい昨日のことのように思い出せるのに。
「……じゃあさ、行けたら、行くの?」
 弟の思いがけない一言に、彼はハッとまなこを開いた。
 行けたら……当然、行くだろう。だが。
「……そのうちオレの友達が行ったりきたりできるようにしてくれるんだってさ。そうなったら、そりゃあ一度は行ってみたいな。――けど」
 ぽん、と、弟の少し小さな頭を掌に納めて、
「絶対に帰ってくる。オレの故郷はここだ」
 その言葉に、弟は素直に笑顔を見せてくれたので、彼もまた安堵し口角を持ち上げた。
 その時だ。
 バシィイイィィン。
 バシィィンッ!!
 二つの、音。何かがはじけ飛んだような音が、遥か上空から聞こえてきた。続けて、耳慣れないエンジン音。空を切り、駆け抜ける音――。
 首をもたげ、二人揃って見上げる。遥かな高み、その場所に、スクーターによく似た何かが飛んでいる。
「にーちゃん! あれ! あれなに!?」
「なにって……ありゃあ……!」


 玉虫色の門をくぐった先は、爽やかな風が吹く春爛漫の空だった。空気の薄さから鑑みて上空三十メートル程度だろうか。意外に高度が低い。
 空気の匂いは、故郷とまるで同じだ。緑の匂い、水の匂い。微かに混じる火山の成分。
「うおおおお、すっげー! マジで着いたぜ!」
「……たりまえ……僕の計算が狂うはずないだろ……」
「うっひょー!」
 歓声をあげ、エンジンの出力を上げたヴィクスは、勢い任せで機体を一回転させる。当然、運転者であるヴィクスも、その後ろに張り付いた同乗者もぐるりと宙返り。
「気持ちーな、おい!」
 と、ヴィクスが肩越しに同乗者に相槌を求めるが返ってくるのは荒い息遣いばかり。それもそのはず、後部シートに座った四道は殆ど半死半生、真っ青な顔をしていた。
 それを知ってか知らずか、ヴィクスはさらにアクセルを開け、加速モードに突入する。完全にフルスロットルだ。
 それを少し離れたところから眺めていたシュリは、やっぱり、と呆れた眼差しを一号機に向けた。
「あっちに乗らなくて良かった……」
 心底思う。顔に青筋が立つほどに。
「おいおい、こっち選んだの、それが本音じゃないだろうな」
 ちょっとだけ嫉妬が混じった、おどけた調子の声が聞こえたが、あえて反論はしない。彼とは長い付き合いだ。数年のブランクがあっても、この程度の沈黙で意思の疎通が出来ないほど、コミュニケーションは錆びていない。
 そんな彼の運転は、初心者マークに相応しい低速モードではあるものの、それは性格ゆえではない。ジェットコースターが苦手なシュリに配慮をしているだけであって、きっとシュリが後ろに乗っていなければ、三好と一緒になって並走しているだろう。
 その二号機の周囲を、ぎゅいーんだか、うぃーんだか、一号機が羽虫の如く飛び回っているが、あれはまあ、気にしないことだ。
「しかしアレだな。二年くらいしか離れてなかったけど、けっこう懐かしいもんだな」
「王理は二年だけど、私は五年だもん。すごく――」
 懐かしい、という言葉を吹き飛ぶ風に流して、シュリは周囲を見渡した。
 〈バイオ〉の地図とつたない過去の記憶を照らし合わせた結果、ここはシュリ達が通っていた高校の近くになっているらしい。あれから学校はどうなったのだろう。
 〈ノウア〉側から遺伝子改良した蛙を送り込んだり、その他の環境支援、食糧支援をしてそろそろ四年近くなる。予想ではとっくにノア計画は破棄され、この辺りも警戒区域から解放されていると思うのだが……。
「――――い…」
 いま、声が……?
「お――――――い!!」
 声は、遥か下、地上から上空に向かって叫ばれていた。
 見覚えのあるシルエット、聞き覚えのある声。顔立ちはいささか大人びて、身長も記憶の中よりもさらに伸びている。だけど間違いない、彼、だ。傍らの小さな少年は、噂に聞いた弟君だろうか。
「お――――――――い!!」
 嬉しそうに、笑顔が全開で、両腕を大きく振ってアピールしてくれる。
「おお、ジンだぜ、ジン! ほらタカ、見てみろよ! おーい!!」
「……うう、ぉえぷ」
 一号機からそんな声が聞こえ、苦笑しつつ、シュリも地上に向かって手を振った。
 応えてくれたのが嬉しいのか、三好はさらに大きく、マッハに迫る勢いで手を振り返す。相変わらず元気らしい。今はただ、それだけが嬉しい。
「相変わらず元気な奴だな」
 ハンドルをしっかりと両手で握り、相変わらずの安全運転で進める王理も、彼の元気に充てられたのか、頬が少し緩んでいた。
 その背後でシュリは、胸元からネックレスを取り出す。
 二つ連なった、ドッグタグ。彼女の思い出がつまったそれを、手のひらに乗せて、そっと、語りかけるように呟いた。

「――これで四人そろったね」
<< back   top   END
Copyright (c) 2003 - 綿子 All Rights Reserved. Since 2003.04.23.