MAGNA MATER (マグナマター) -朱色の指揮者-  【60】
 記憶が制御できない。知った顔が次々と浮かび、口を開く。シュリ、シュリと呼び掛けは陽炎のように消えて、また別の顔が名を呼ぶ……。
「あんたがその名前で私を呼ぶはずがない……。『[あんた]が生きている世界』で、それだけはあり得ない!」
「お、お姉ちゃ――」
「その名前は私の名前じゃない! あんたの名前でしょ!!」
 妹の動きが――いや、彼女の動きが停まった。
 すでに思考は正常な回路を復帰させており、弾け消えたはずの記憶も徐々に戻ってきていた。頭の中にぽっかりと空いていた空洞が、過去の幻視とともに少しずつ埋められていく。
 世界的な食糧危機、緊急措置として始まったノア計画、計画に選出された妹と、妹の事故死――。
 両親は、もう一人の娘を確実に救うために、娘が双子だったことを幸いに、死んだ娘の名を偽って申告し、父母の意志を汲み、大きな嘘に調子を合わせる村人たち……。
 数えられないほど、妹の名で呼び掛けられた。だが不思議と不快感はなく、自分でも意外なほどすんなり受け入れられた。
 本来の自分が世界から『消去』されてしまったことは悲しかったのだが、それと同じ分だけ、自分の表面上で生き続ける妹の影があることが嬉しかったのだ。
 だから朱里と呼ばれることに大きな抵抗はなく、今では「朱里」の名も自分の一部だと思えるほど親めた。
 だがもし仮に『妹が生きている世界』があるのだとすれば――。その世界で、自分が「朱里」と呼ばれるはずもなく、ましてや、妹からそう呼ばれることも有り得ない。
 両親が思いの丈を込めて名付けた、二人の娘の為の二つの名前を、たったひとりで背負うこともなかった。
 父が生まれ、母が愛し、親しむべき村人たちが穏やかに生活する杣の里。何十年も昔からずっと時が止まったままのような、どこか懐かしい風景に、都会育ちの母は憧憬を抱き、愛すべき双子の名前に代えて与えた。
 悠久の時にうずもれる朱色の里。
 ――だから、悠里と朱里。

 長い空白が場を満たしていた。
 指一本ぴくりともさせずに、相手の出方を窺う。
 だが、返ってくる反応は薄い。
 少女は顎を引いてうつむいており、前髪が目元に濃い影を落としていて、表情を垣間見ることができない。血色の薄い唇も横に引き結ばれたままぴくりとも動かず、頬も、桃のように柔らかそうなラインを保ったまま少しも崩れない。
 情感の緒すらも見えず、感情が放つ気配も非常に希薄だ。
 だが、伝わってくる情報が少ないからこそ、僅かでも感じた異変には敏感になるというもの。
 さっきからチリチリと肌の上でスパークしているのは、彼女の少しの怒り。そして撫でるような冷風は揶揄と愉悦の混在だ。
「――フフッ」
 もはやそこに妹の面影はなく、ここに至ってようやくシュリはハッと我に返った。
 改めて少女を直視すると、十代半ばの少女らしからぬ不気味さがこちらの警戒心をひどく刺激する。
 ついさっきまで妹を演じていた少女と、いま目の前の少女は、本当に同一人物だろうか。殺気のような、威圧感のような、あるいは瘴気のような、べったりと肌にまとわりつくこの空気はなんだろう。
「なんだ……そっか。真名を取り損ねちゃったかぁ」
 潔く諦め、一回戦の敗北を認めた少女の口元が大きく横に広がった。弧を描き、愉楽をなぞり、彼女の悦に応えるようにぐにゃりと空間がひずむと、途端に、懐かしい故郷にひび割れが生じた。ガラス窓にヒビが入るように、空間にビシッと音を立てて全面に渡って亀裂が入り、バリン! と一息だけで全てが壊れる。
 鈴を転がす音色で虚像の欠片が氷雨のように降り注ぐと、景色も、そこにいた人間の数も一瞬で変わり果てた。
 懐古を促していた景色は、西欧の王城を、更に限定すれば王冠を頭に載せた人物との邂逅を許された謁見室のようだった。
 広さを数字に換算するのも嫌になるくらいの茫漠としたひと間に、緋色の絨毯がみっちりと詰め込まれている。窓が一つもない壁は至っては非常にシンプルだが、隅々には金で飾り枠のような装飾があり、相応に華やかだ。
 一定の間隔で設けられた柱と柱の間には、全部で九体の全身像。全てが女性で、各々の個性を強調する美しさを備えている。どこか宗教染みた雰囲気を彷彿とさせるのは、彼女達の顔立ちが西欧神話の女神を想起させるからだろう。単なる彫刻ではなく、せめて着色があれば美しさももっと際立ったのだろうが、物言わぬ彼女たちは謎めいた微笑を固く凍結させたまま微動だにしない。
 それらの彫像に視線を滑らせ、部屋の奥に向けると――
 シュリの前方、その場所には、肘掛と独創的な背もたれが付属した椅子――王座が用意されていた。
 目を細めて視力の限りを尽くすと、玉座に何者かが深く腰掛けた姿が見て取れる。くたり、と力なく折れた腕と足、丸まった背中。どんなに頑張っても礼儀正しいとは言えない座法だ。顔は見えないが骨格からその人物が男性だろうとあたりをつけるも、いまいち確証が持てないのは、シュリの鋭敏な感覚器を研ぎ澄ませてもその人物からまるで生気が感じられないからだ。生きているのか、死んでいるのかすらも判断が危うい。
 ――と、室内の全景をそこまで確認したところで、傍近くで慌てた声が聞こえ、シュリは左右に首を振った。いつの間にか三好や四道、ステラの姿がそこに戻っていた。口々に誰かの名前を呟きながら、茫然と、あるいは驚愕に見舞われつつも、なんとか自制を保っているように見える。
「みな無事か?」
 マムの言葉に真っ先に応えたのは四道だ。とはいえ、その返答には間があり、周囲の確認と室内の見定めを終えてようやく彼の口が開く。
「……ああ。気分は最悪だけど」
 いったい彼は何を見たのだろうか。少なくともシュリと同じものではないはずだが、それに近似した何かではあるのだろう。きっと、家族か親しい友人あたりが彼に囁きかけ、夢の奥まった場所まで引き摺りこもうとしていたに違いない。
 さらに自力で脱出したシュリとは違い、四道たちはその夢の半ばで強制的にシャットアウトされたのだ。夢醒めやらぬ、つまりは起きぬけの寝ぼけ顔も同然で、彼らの反応が一様に曖昧なのも当然だった。
「なん……だったんだ、いまの……。カズ……弟は……」
「勘違いさせられてたんだよ。――いや、刷り込まれてた、というべきかな。騙されてたんだ」
「夢……だったの? あれが白昼夢なんて……」
「オズマのしわざだろう」
 険しい目つきでライフルの安全装置を外し、警戒心を高める四道の断言に、シュリは違和感を覚えた。
 ――オズマのしわざ――なのだろうか……?
 あの幻視に現れたのは十代半ばの娘がひとり。四道の言葉から推測するに、シュリ達はその娘を各々の身近な人間であると刷り込まれていた。シュリもまた、容姿も、声も、口調も異なるあの娘を「妹」と思い込んでいた。
 しかしなぜ、そうする必要があったのだろう。
 先ほどの能力は、標的となる人間とその周囲の人間の表層の記憶をすくい上げるものだと推測できる。潜り込める記憶の深度や深さ、解析能力など一切不明だが、時間的な制限だったのか、あるいは能力そのものの限界だったのか、シュリの記憶の故郷は不完全な形で再現されてしまった。そのためあの娘はシュリの真名を呼ばず、記憶によって再現された故郷に、双子とは切っても切れない「お隣さんちの王理君」が配置されていなかった。
 この二つの要素が揃っていれば、シュリは確実に記憶に取り込まれ、現実への回帰は不可能だっただろうが――今の問題点はそこではなく、再現可能だった「妹」が、どうして「妹」の姿、容をしていなかったのか、という一点だ。
 記憶を読み取って故郷を作るほどの術者ならば、妹の容姿を再現するのは簡単だっただろう。ましてや姉妹は両親も間違って当たり前なほど似た双子で、シュリという見本が目の前にあったのだから、他の三人に比べて再現は簡単だったはずだ。
 もし、「妹がいた」という事実のみを読み取って容姿の再現が不可能だったとしても、それを「栗色の髪の十代半ばの娘」の姿にしなければならない理由にはならない。どんな容姿であれ「あれは妹だ」と思いこませることができるのだから、もっと別の、極端な言い方をすれば、顔も色もない黒い人影だけでも良かったはず。
 あえて娘の姿を選んだのは、何か理由があったはずなのだ。そう、たとえばあの娘の姿が「本体」なのだとしたら――。
「オズマ!」
 軋むようなマムの声にハッと現実に回帰する。
「もうやめるのだ! このようなことを続けていてもユリアの友など現れぬ! むしろ立場は悪くなり続けるだけであろう! 現に今の〈ノウア〉はそなたを恨む者しかおらぬ……もうよいであろう!? もう十分のはずだ!!」
「…………」
 マムの言葉を受け取ったはずの玉座の主は、しかし無言を貫いた。一秒が一分にも感じる長い空白を経ても、玉座の人物はまるで反応を示さない。そればかりか、だらしなく力を抜いた体がぴくりと動く様子もないのだ。
 ――何かがおかしい。
 目を凝らし、耳を澄ましても、命の息吹が小さい。呼吸音、鼓動音、生命の気配が希薄なのだ。
「きゅぴぃ……?」
 傍らのエオリアが可愛らしく小首をかしげる。
 マムも他の三人もその異常に気付いたらしく、訝り、眉を寄せる。
「……オズマ……?」
「ムダ、無ー駄ぁ」
 不意の声は、音階をなぞる歌声のようだった。くすくすという含み笑いも併せて広い室内に響く。すると間もなく玉座の傍らに幻視に登場したあの娘が現れ、ふふ、と、唇の端から笑い声を洩らした。
「ユリア!!」
 半ば以上予測していた名前をマムが叫ぶ。軋むような声だ。何百年もの間、一秒たりとも忘れたことなどなかった――そんなマムの思いが声なき声でシュリの耳に届く。
 きっとその無音はユリアにも届いているのだろう。
 だが彼女の反応は驚くほど冷やかで、柳眉をぎゅっと中央に寄せ、目尻を細くし、苛立ちと憎悪の瞳でマムを睨めつけるだけだった。そこには再会の感傷が入り込む余地もない。
 ユリアにとってのマムは、召喚され契約を結んでおきながら、人間とつるんで彼女を〈バイオ〉に置き去りにした裏切り者なのだろう。マムを刺す憎しみの棘が、その怒りの深さを物語っている。
「……ユリア……」
 マムもそれは承知の上だった。後悔や自責、そして使命感から覚悟を決め、数百年目にしてようやくここを訪れる決心をしたのだ。だがこうして面と向かって叩きつけられた嫌忌は頑なに激しく、謝罪どころかたった一言さえ許容してくれそうにない。
 開きかけた唇が再び閉じられ、マムは目元に暗い影を落とす。積もり積もった後悔を剣にして、己を責め立てる姿が痛々しいが、今の問題は彼女の心境ではない。
「どういうことだよ、無駄って」
 務めて低い声で四道が割り込むと、ユリアは再び口元に笑みを浮かべた。
「だって半分死んでるようなものだもん。ねー? オズマ」
 ユリアの真っ白な手がすっと伸び、玉座に座る人物の顎をするりと撫でる。筋力の欠片も窺わせないその人物――オズマは、ユリアの指の動きに合わせて顎を動かし、ようやくその面を見せた。
「……ッ!!」
 ミイラ、だ。
 皮膚はしわがれて茶色に変色し、肉は完全に削ぎ落ちている。眼球は存在するものの、眼窩がほとんど落ちくぼんでいて、半分飛び出しているようなものだ。どんな顔立ちをしていたのか、もはや往時の面影すら窺えない。よく見れば、長い袖から生えた手もまた異様に細く、皮と骨のみになっている。
「ね? 無駄でしょ」
 オズマの頬に己の頬を触れ合わせ、恍惚とした表情で微笑むユリアに、どんな言葉をかけられるというのか。
 メンバーのほとんどが絶句するなか、唯一ビックマムだけは恐怖に似た何かに打ちのめされながらも何とか声を発した。
「なぜ、このような……。――オズマ! オズマ、いったい何があったのだ!!」
「…………」
「ふふ……だから無駄だってば」
「ユリア……」
「オズマはねぇ、マムがいなくなったあとも、ずぅーっとひとりで頑張ってくれてたんだよ」
 コツコツと靴のかかとをならし、ユリアはオズマの後ろに回り込んだ。頬から肩へ、指をするすると這わせ、背後に立ったところで玉座の背もたれごとオズマを抱きしめる。
「でも私の願いはちっとも叶わなかった。ただの一度もね。そのうち、【契約違反[ヴァイオレーション]】の影響で私が弱ってきて、どうしようもなくなっちゃって。だから――」

「私がオズマの力を貰ったんだよ」
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