MAGNA MATER (マグナマター) -朱色の指揮者-  【59】
 扉をくぐってオズマの牙城に飛び込むと、最後尾のシュリのすぐ後ろで扉が閉まった。ゴウンという重い残響音がシュリの心を締め付け、不安を起こす。
 もしかしてあの少女はオズマがシュリ達を引き離すために用意した囮ではないのだろうか。ヴィクスやライトと、離れるべきではなかったのではないだろうか……?
「あのふたりなら大丈夫であろう。心配いたすな」
 誰ともなしにマムが声をかけてくる。
 考えてみればマムはこの場の誰よりも彼らと付き合いが長いのだ。そんな彼女にそう言われては、長く心配を引き摺ることもできない。扉が閉ざされた今はもう、彼らを信じるしかない。
「ゆこう。オズマは近い」
 マムに促され、全員がそぞろに歩き始めた。
 先陣を切る三好。彼は一番、ヴィクス達を心配していない。いつでもシュリ達を庇い、守ってくれたヴィクスを信頼しきっている彼は、ヴィクスが負けるはずがないと確信している。
 続く四道は、信用しているものの、扉の向こうにいけない以上助ける術もないと、合理的に考えているようだった。彼らをあちらに置き去りにしたことに対し、罪悪感も心配も感じていない。二人に対する思いを振り切り、すっかりオズマに集中している。
 それとは対照的に、ステラの表情は相変わらず心配一色だ。四道の後に続くマムの背中を追うも、一度だけ名残惜しそうに扉を振り返る。足元で「ぶにゃー」と鳴くウィカチャに促されなければ、彼女はずっとここに立ち止まったままだっただろう。
 最後に、シュリ。ステラのように振り返ったりはしなかったが、かといって置き去りにした後悔がないわけでもなかった。しかし心配ばかりしていられないのも事実だ。
 オズマが近いというマムの声が、シュリに気持ちの切り替えを要求する。
「きゅぴ、きゅぴぃ」
 と目を険しくするエオリアを一瞥したシュリは、エオリアを見習って一歩進むたびに目元を吊り上げていった。
 奥へ一直線に続く回廊は、終わりが見えないほど長かった。
 足元は、黒曜石に似た色で作られたガラスっぽい素材で固められていて、歩くたびにカツカツと小気味良い音を響かせる。幅は三メートルはあるだろうか。左右を挟む壁は床から一定の高さで外側に向かって楕円を描いており、剥き出しの岩のような、緩やかな凹凸のある表面をしている。一定の距離を隔てて並ぶ、壁に埋め込まれた柱には装飾と、象形文字のようなものが彫刻されているが、残念ながら読むことはできず、意味も分からなかった。おそらく〈バイオ〉で昔使われていた古語なのだろう。
 全体的にオレンジっぽい色をしているのは、天上からぶら下がる大きな明かりがあるからだ。半径一メートルはあろうかという巨大なランタンで、形は提灯の御殿丸に似ている。細い金で編まれた籠状の装飾、その向こうで揺らめく光の源は何なのか、よく分からない。
 何百年も無人であるはずの〈バイオ〉で、埃ひとつ見られない建造物というのも不思議だ。オズマの手の内だと考えれば多少の不思議も許容できるが、逆に不気味な一面もある。
 一気に駆け去ってしまいたい衝動に駆られるが、先頭を歩く三好は、彼にしては珍しく警戒心も剥き出しで慎重に一歩を進めており、ひと息に回廊を踏破するつもりはなさそうだった。
 横道も曲がり角もない一本道、それを確実に進んでいく。
 だが幸か不幸か、敵の気配はまるでなく、何百メートルも進んだ先で、ようやく一枚の扉にぶつかった。行く先を塞ぐように、シュリ達の前に立ちはだかるそのドアは、外の飾り気のない無骨な扉とはまるで対照的で、赤地に白百合が装飾された女性らしい優美な印象を受ける。
「開けるぞ」
 返答を待たず三好が扉に触れ、腕力を尽くしてぐっと押す。
 扉は音もなく中央から割れ、徐々に開いていき――
 完全に開き切ったところで全容を見せたその光景に我を忘れ、その場に茫然と佇立した。
 遠景と近景を埋め尽くす山岳のシルエット。緑の世界。少し視線を落とした先には形が整っていない段々畑や棚田が続いており、それらを用水路が数珠つなぎにしている。山裾に沿って蛇行する舗装路はガードレールも中央線もない道路だが、この辺りで一番大きな道で、しばらく進むと県道に繋がっており、ときどき野菜や果物を満載した軽トラックが路面のでこぼこにバウンドしつつ走っていく姿が見られた。通過する車の数は一時間にせいぜい一台程度だが、ごく稀に村を通過する市営バスに比べれば遥かに多い。運転手はたいがい六十は過ぎた老体で、村の超高齢化をそのまま示している。
 シュリの視界の左から右へと走る軽トラック。ここからでは遠過ぎて、誰が運転しているのかまでは分からない。ほんの小指の先程度の大きさの自動車を視線だけで追うと、車は視界の右端で山の影に隠れてしまい、代わりにとても大きな朱色の夕日が目に飛び込んできて世界の色を塗り替えた。
 村全体が赤みを帯びて、趣のある黄昏へと変貌する。点在する古民家の屋根のソーラーパネルも色を変える。この時間帯はスマートグリッドの送電網が電力の流れを供給側から需要側へと切り替わる時間帯で、ほんの少しだけネット接続にタイムラグが発生する頃合いだ。本当に僅かな、数秒にも満たないラグだが、その感覚をケータイを扱う指が覚えている。
 この光景も、夕陽の色も、村中を縦横無尽に繋ぐ細いあぜ道がどこに繋がっているのか、全部覚えている。
 ――ここは故郷だ。
 シュリが生まれ、育った村。
 ――でもあり得ない。ここは〈バイオ〉で、地球ではない。
 だが目の前の風景は、寸分たがわずシュリの記憶のままだ。山間を抜ける風が運ぶ夕食の匂いもそのままに。
 ――そんな馬鹿な!
 再度、理性が記憶を否定する。そこでようやく、三好や四道の存在を思い出す。
 はっと首を動かし左右を確認するが、なぜかそこには誰もいなかった。先頭をきっていた三好も、それに続いていたマムも四道も。ステラも。ついさっきまでいたはずなのに。どこかへ移動した気配もうかがえなかったのに。
 ささやかな焦りが恐怖へ転じようとする。今度は首だけでなく、数歩動いて彼らの姿を捜す。
「どこに……」
「こっちだよ」
 声はシュリの背後から届いた。
 後ろを振り返る。樹齢何十年という枝垂れ桜の傍らに、幼い少女が立っていた。
 お隣の――といっても、距離にして五百メートルは離れていたが――大地主の老婆が結婚記念に植樹したという枝垂れ桜は満開で、少女の足元には夕陽で赤みの増した桜の花びらが絨毯になっていた。
 少女に見覚えはない。明るい栗色の髪と、爽やかな薄い緑の瞳。そばかす。にっこりと、楽しそうな弧を描く小さな唇。十歳にしては顔立ちが大人びている。ライト少年と同じくらい、だろうか。
「どうしたの? お姉ちゃん」
 お姉…ちゃん……。
 無音のまま口の中で反芻すると、脳裏でなにかが焼け焦げたような熱を感じた。お姉ちゃん――と、そう呼ぶ存在が、確かにいた。……あれは……。
「お姉ちゃん? ほんとにだいじょうぶ?」
 ぴょん、と懐に飛び込まれ、ささやかに狼狽し、そんなに驚くような相手でもないだろうと自制する。彼女に対して、自分はなにをビクビクしているのだろう。警戒心を抱かなければならないような相手だろうか。
「……ごめん。ボーっとしてた」
「あは、そんなことだろーと思った。お姉ちゃんってずっと呼んでたのに、ぜんぜん気付いてくれないんだもん」
「ずっと?」
「うん、ずっと」
 誰でもなにげなく口にする、ありきたりな単語だ。だが不思議なことに、彼女が音を与えると永遠にも近い永い時を連想させる。
 ずいぶんと長く――永く待たせてしまったのだと、心から申し訳なく思った。
「……ごめん」
「いーよ、もう慣れたし」
 ジリッと、頭の片隅で小さな火花が弾けた。線香花火の一瞬のスパーク。しかし儚くも一瞬で火花が消えると、後に残るのはがらんどうの真っ暗な空洞だ。――なにか、大切なものがここに詰まっていたような気がするのに、それが何なのか、どんな形状だったのか、何にまつわるものだったか、まるで思い出せない。
「お姉ちゃん、オワビに遊んでよ」
 また、弾ける。また、消える。
「じゃあみんなで――」
 彼らも一緒に――そこに居たはずの人間を求めて振り返るも、そこには長閑な田舎風景が広がるだけで誰もいなかった。
 強烈なデジャヴ。ほんの少し前に、これと全く同じ行動をし、同じ結果になったような気がする。しかしほんの少しの前とは、いったいどれくらい前だっただろう。
「なーに? 誰もいないよ、お姉ちゃん?」
「……そう、だね」
 ――なにをやっているんだろう。
 この山奥の村は、六十歳を過ぎた年寄りが八割を占めていて、一緒になって遊んでくれる人間は妹しかいなかった。姉妹以外で一番歳が近かったのは隣の家の息子で十三歳年上だ。一緒に遊んでくれるような年齢ではない。ただ親代わりに、あるいは本物の親のように、姉妹の面倒をみてくれていた。生まれた頃からの付き合いだったから、殆ど家族のようなひとで、
「ねえ、何して遊ぶ?」
 こうやって二人で遊んでいるときも、いつの間にか仕事を終わらせた彼が後ろに立っていて、ずっと見守ってくれていた。
 そのせいだろうか、後ろからの視線が気になり、もう一度振り返る。だが夕焼けに彩られた風景は数秒前となんら変わりなく、そのままだ。母親が好きだと言った、夕暮れの村の風景。
「もー、お姉ちゃーん?」
「……遊ぶって言っても、そんなに長く遊べないでしょ」
 取り繕うように苦笑する。
 山の日暮れは早い。一時間もしないうちに陽は落ち切って夜になるだろう。
「だから早く終わるやつがいい」
「じゃあ鬼ごっこにしよ! お姉ちゃん鬼ね!」
「いやそれ、終わらないって」
 テストの点数こそどんぐりの背比べだが、運動神経では勝てたためしがないのだ。鬼の足が遅いと、いつ終わるとも知れない――つまり彼女は確信犯で提案したわけだ。
「もう決まり。ホラ、こっちこっちー」
「あ、ちょっ……」
 きゃあきゃあとはしゃぎ駆け出す妹を、止めさせるために追いかけたが、人間にも狩猟本能とやらが残っているのか、段々本気になってしまう。
 もう少しというところで加速されたり、器用な体さばきを披露されたり、フェイントをかけられて単純に引っかかったり。
 徐々に本来の目的を忘れ去り、いつの間にか全力疾走で妹を追いかけまわしていた。
 桜の根元を一周し、夕陽に向かって走る。端近まで走りきったら、巧みに鬼の手を避けてまた桜の木を目指す。飽きることなく、何度も何度も……。
「鬼さーん、こっちこっちー」
 ――完っ全に弄ばれてる……。
 肩を上下させて体力の限界を感じる姉に対し、妹は相変わらずの調子で逃げ回っていた。挑発するように周囲を一周し、佇む桜の樹の幹の向こうへ姿を消す。そしてひょっこりと顔だけを出してくる。
「も…、あんたね……」
「あはは、シュリお姉ちゃん、体力なさすぎ!」
 バヂン!
 頭の中で、記憶が盛大に爆ぜた。これまでの、記憶のすべて。生まれてから今に至るまでの全てが一気に解放される。
「ほらほらー、こっちだよー!」
「…………」
 ――朱里。
 指先を握り込んで拳を作り、戦慄にわななく両肩を必死に抑えて、荒波のように渦巻く感情をこらえる。なにかを言い募ろうと唇が動くが、薄く開くだけで言葉は出て来ない。
 記憶が暴れる。
 今まで出会ってきた沢山の人たちが、「シュリ」と、呼びかけてくる。朱里、と。
「……どうして……」
「え? どうしたの?」
 薄っすらと焦りを浮かべる妹は、樹の幹から離れ、こちらを気遣うように近寄ってきた。手を伸ばせば触れられる、そんな距離にまで近付かれて、シュリの身体が自然と距離を取る。
「シュリお姉ちゃん、どうし――」
「あんただけは一度もその名前を呼ばなかった!」
 追いかけてくる白い手を、弾けるような叫びで押し返した。
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