INDEXback宮廷舞踏会 -芙蓉- 第05章 第27話next
1.2.3.

1. 「NEXT STAGE 16.」


「カトラス」
「――はい」
「東方王宮総取締役の任と共に、銘、『榊』を授ける。これよりは東方王宮そのものを一任されたと自覚し、我が意志と共に、この東方王宮に在れ」
 イーストフィールドマスターであり、東方王と呼ばれるマクラレーン様のそのお言葉を、カトラスは正確に寸分の狂いも無く読み取っていました。
 東方王宮総取締役就任は、東方王宮の誰よりも、カトラスの実の父であるディオール議員よりも、何よりも、マクラレーン様ご本人が強くご希望されていた事です。その為、カトラスには今までの総取締役以上に様々な面で優遇されることが予想出来ます。ただし、その為にはマクラレーン様の御意志には逆らえません。そして、東方王宮から出る事も儘ならないでしょう。極端な言い方をすれば、カトラスを東方王宮に縛り付けるのがマスターの目論見です。
 普通の方ならば嫌がるでしょうが、カトラスは元々、総取締役が王宮に縛り付けられてしまう地位であることを知っていますし、総取締役は王宮内の事ならば独断であらゆる重要項目にも決定が下せる役ですが、あくまでも多忙なマスターの筆頭代理官でしかありませんから、マスターのご意志には逆らえません。それに彼は、父よりもずっと以前の代から東方王宮に仕えてきた貴族の息子。東方王宮以外の場所で生きる事を知りませんから、今のままでも十分に東方王宮に縛られています。それら総てを理解した上で、カトラスは総取締役の地位を手に入れることを望んでいました。今、目の前で起きている現実は総て彼が望んだ結果です。
「――有難う、御座います」
 少々、強張った声で、カトラスは深く、頭を垂れました。


 前任者、芙蓉とは比べ物にもならないほど盛大に開かれた、新総取締役のお披露目、及び拝銘式。集まった招待客は東方王宮管轄の領主方を含め、東方王宮の議員、交友のある来賓、軍部からは将軍クラスの方々、折り良く東方王宮に滞在していた中央王宮の王子、そしてエルフ族を含め、数百人は下りません。中でも着飾ったエルフ族は特に目立ち、また、東方王宮の威光を見せ占めるに十分な役割を果たしており、招待された来賓方は煌びやかな彼らの姿に誰もが息を呑んでいました。
(効果は絶大だな……)
 我先にエルフと親睦を深めようとする来賓に目を配るカトラス。
 それも当然です。エルフ族は、文明を失った人間に援助を施し、今日こんにちの人間界の礎を築いた、言ってしまえば神様のような存在。生来、感応能力の高い彼らは自らの地であるアルフハイムから出ることがありませんので、こうして近付くどころかその姿を目に捉えることすら出来ないのが普通ですからね。これを機に……と企む人間は少なくないでしょう。エルフを相手に無駄な企みなのですが。
「このたび仕儀しぎ、誠に御目出等御座います」
「有難う御座います」
 次々と取って立ち代る来賓達に、カトラスは同じ言葉でお礼を述べます。
 父親が上席調印議員である為、礼儀作法や宮廷での作法は子どもの頃から仕込まれており、パーティーや公式の場での紳士的な立ち振る舞いで彼らを出迎えるのですが、こうも続くと流石にうんざりします。特に彼は、政界への進出――議員への道を諦め、東方王宮の内政の道を選んだ頃からずっと社交界とは無縁。久し振りの公式の場は、体力よりも先に気力が削がれてしまいます。
「もう少し、しゃきっとしろ」
 笑顔が引き攣ってきた頃、彼に付き添っていた彼の父――ディオール議員が、カトラスに耳打ちしました。
 指摘されて表情の欠落に気付いた彼は、慌てて胸中で気合を入れ直します。それからちらっと、右隣の父の姿を盗み見しました。
(こんなに世話焼きだったかな……)
 父との仲は、はっきり言って悪かったと自覚している彼。特に彼が内政業務に携わってからは悪化の一途で、カトラスが出世を始めれば途端に目の色を変えて総取締役を目指せと言う父はとても疎ましく、また、ディオール議員も自分を嫌悪する息子に気付き、自然と二人は疎遠になってしまいました。そんな父に世話を焼かれるのは、少々くすぐったくもあります。カトラスは胸の内でひっそりと照れながら、次々と挨拶回りをこなしていきました。
「芙蓉は、来ていないんだね」
 最後の挨拶相手、東方王宮参謀のウィル様と、そのいとこのミュゼ様、そしてミュゼ様のお目付け役の織也を相手にしていると、不意に、ウィル様がそんな事を呟かれました。挨拶回りの間中、ずっと付き添っていたディオール議員も、今は他の議員の相手の為に傍を離れています。カトラスは遠慮なく本音を洩らしました。
「お越し頂きたかったのですが、面倒、の一言で片付けられました」
「はは、芙蓉らしいね」
 理由が面倒だからの一つで無い事を、二人は知っています。東方王宮総取締役を退任したのではなく、解任されたのですから、こういう公式の場に元・総取締役が現われるのは非常に好ましくありません。場の雰囲気も壊れるでしょう。冷たい視線と面倒な社交辞令に囲まれては楽しくもありません。だからお断りさせて頂いたんです。
「でも、祝ってくれているんだろう?」
 芙蓉はマクラレーンやディオールと同じく、君の総取締役就任を望んでいたからね。
「ええ、まあ」
 苦笑に似た笑みを浮かべ、カトラスは頷きました。
(芙蓉様……)
『もし覚悟があるのなら、拝銘式の日の夜、私の部屋に来て下さい。その日ならばマスターや侍女やメイド達も皆、パーティーに気を取られているでしょうから』
 だから誰にも悟られずに逢う事が出来ます。ディもその日は総取締役補佐官としてパーティーに出席せねばなりませんし、二人っきりの静かな時間が過ごせるでしょう。――密会にこれ以上最適な日はありません。
「祝う気持ちがあるのなら参加すべきだわ! わがままなのよ、あの子は!」
 ぷん、と腹を立てるミュゼ様。
「まーまー、あいつにも、何か考えがあるんだろ」
 それを宥めるのは勿論、織也。
 何かと目立つ組み合わせの二人ですが、今日は場に合わせて着飾っている為、いつも以上に目立ちます。ミュゼ様は、予想通りに。織也はとても意外に、正装が似合っていました。
「お二人も、この度はお忙しい中、拝銘式にご参加頂き、有難う御座います」
「こちらこそ、お招き頂き有難う御座います。この度の東方王宮総取締役着任には、心より御慶び申し上げます」
 頭を下げあうカトラスとミュゼ様。周囲の目を気にした形ばかりの社交辞令の応酬を眺めていた織也の視線に気付き、カトラスが不遜な笑いを零しました。
「この様な場には慣れていらっしゃらないとお見受けします。さぞかしお疲れでしょう」
 王宮仕込みのこの嫌味に織也が気付く筈もありません。しかしその口元の笑みと口調から馬鹿にされているらしいと悟った彼は、ムッとしつつ、反撃を試みました。
「いーや、別に? お前の方こそ大変そうだな。あっちにペコペコ、こっちにペコペコ、首が痛くならないのか?」
「お気遣い有難う御座います。――とは云え、事務職が主な仕事ですが、体は未だなまなまっていませんので。それに、このような公式の場での作法として、皆様に感謝の意を表す為にも、折るのは首ではなく腰ですから」
「くっ……」
 返す言葉を失った織也は、悔しそうに顔を歪めます。それから首を逸らし、「芙蓉みたいなヤツだな」と、ぼやきました。
 そんな二人の間に立たされて苦笑いのウィル様とミュゼ様。
 そこにまた新たな祝賀者が参加します。
「カトラスさまー!」
 声を張り上げて遠くから手を振る姿が見受けられます。
「カトラス様、おめでとう御座います」
「おめでとーございますっ」
 駆け寄ってきた二人は、開口一番、軽い口調で挨拶をしました。取締室の室員、アデリアとエリザです。その後ろから、背の低い女性と、ごく普通の男性が追い掛けて来ます。女性がハロルド、男性がスコット。二人とも、アデリアとエリザと同じく取締室の室員、つまり、カトラスの部下ですね。
「おめでとー」
 いつも通りの間延びした独特な口調のハロルド。
「あ、お、おめでとうございますっ、室長!」
 緊張気味でやたらと気合が入っているのがスコットです。
「スコット、もう室長じゃないでしょ」
「あ」
 しまった。
 エリザの突っ込みに口を押さえるスコット。
「スコット、緊張し過ぎよ」
 苦笑してフォローするアデリア。
「スイマセン」
 と項垂れる彼に、カトラスは「いや」と短く答えました。
「ダメなんですよねー、オレ。こういう場所、苦手で」
 碌に参加したこともないんですよね、と、頭を掻きます。
 そんな彼の背中を、バンバンと威勢良く叩くのはハロルドです。
「まー、しょーがないじゃんー? こーゆーの、慣れだしー」
「ハロルドさんは慣れてるんですか?」
「んー? お仕事だしー?」
 満面笑顔の彼女に、
(読めん……)
 一同は首を傾げました。
「エイジアンはどうした?」
 面子が一人足りない事に気付いたカトラスが誰とも無く訊ねます。
 答えはハロルドから返ってきました。
「面白そーだったからー、お酒飲ませたー」
 その一言で何が起きたのか、あらましが容易に推測出来ましたが、念の為、先を促すカトラス。
「――それで?」
「ばたんきゅー。弱いねー」
 ぱっと広げて見せた手は、この場に居ない酒を飲ませられた部下、エイジアンの末路を現しています。
 ……気の毒に……。
 同情ではなく、しかしそれに近い思いを胸に、カトラスは短い溜め息をつきました。

 彼らは暫く談笑を交わしていましたが、ミュゼ様がフェルゼンに呼ばれ、その場を離れました。何事かと思いきや、エルフからのお祝いとして、芭蕉琴の演奏が催されます。ミュゼ様はそれに合わせて歌声を披露。事前に何の連絡も無かった為、カトラスは驚愕と感嘆交じりでその美しい光景を見ていました。
「私がお願いしたのよ」
 してやったり、といった雰囲気が聞いて取れる凛とした声音がカトラスの隣に並びます。
「とても美しい琴でしょう? どうしても音色が聞いてみたくて、芙蓉にお願いしたの」
 ふふっと悪戯っ子の顔をする東方王妃レイチェル様。
「芙蓉様に……ですか?」
 琴と一体どんな接点があるのか掴めないカトラスは思わず聞き返していました。
「ええ、そうよ。実はあの琴――芭蕉琴、だったかしら。エルフ族の方々から、芙蓉が頂いた物なの」
 その説明を受け、そういえば、と、心当たりを思い出すカトラス。
(以前、キャラウェイが楽師としてこの東方王宮へ入宮していた時に、確かそんな話を小耳に挟んだ気がするな……)
 意外に思いつつも特に深くは考えなかったみたいです。酒の肴になる程度の内容しか話しませんでしたからね。印象に残らなかったのも無理はありません。
 貸し出された芭蕉琴をアルフハイム一の名手と名高いフェルゼンが奏で、幼さが浮き立ちながらも深みのある歌声を披露するミュゼ様。おそらく世界一と断言しても過言ではない演奏会は、社交辞令が飛び交う会場を一瞬で静かにしてみせました。イーストフィールドマスター・マクラレーン様も、美しいものには免疫力の高いレイチェル様も、芸術には詳しくないマグワイヤ将軍も、ディオール議員も、ちゃっかり領主代表の地位を手に入れたキール様も、招待された来賓の方々も、その音の響きに、皆さん、聞き入られています。中央王宮の二王子に至っては、口をぽかんと丸く大きく開けて、動作をぴたっと止められておられました。それ程の魅力に溢れた音楽に、当然、カトラスも暫し心を捕らわれます。
 古代語か、それともエルフ族独特の言葉なのか、ミュゼ様が歌う歌詞の意味は彼らには全く分かりませんでしたが、それ故に音の美しさがすとん、と、心の奥に抵抗無く落ちる感じ。乾いた真綿が水を吸い込む、あの感じです。
 お喋りの声も、グラスや食器同士がぶつかる音もありません。響くのはただ、歌声と、名手が紡ぎ出す名器の音のみ。
 ―――…。
 ふっと、間を取る為、ほんの一瞬だけミュゼ様の歌声が止まります。その刹那の隙に、カトラスは我を思い出しました。
(今なら抜け出せる……か?)
 挨拶回りも終わったし、拝命式も終了。カトラスが居なくてはならない場面はもうありません。ここで抜け出しても困る人物は居ないはず。それに今ならば、皆、彼らの演奏に心を奪われている為、主役が居なくなっても誰も気付きそうにありません。抜け出すなら今です。
 カトラスはそっとレイチェル様の傍を離れ、演奏に聞き入っている人を刺激しないよう、細心の注意を払いながら、ゆっくり会場の端に向かいました。壁に辿り着いた彼は、確認のため後ろを振り返ります。誰も彼の動きに気付いた様子はありません。相変わらず芭蕉琴とミュゼ様の歌声に聞き入ったままで、身動みじろぎ一つありませんでした。これなら安心です。出入り口の扉を押し開き、会場の外へ身を滑らせるカトラス。無事に出られた事によって自然と出てくる安堵の溜め息。足元へ落とされた彼の視線に一つの人影が映り、彼はぎくっと身をすくめました。
(見付かっ……!)
 ――あれ?
 その人影を認識したカトラスは、肩透かしを食らい、激しく脱力します。
「なんだ、ディか……」
 驚かさないでくれ。
 こちらの動揺など一切気にも止めず笑顔のディに、彼は益々力が抜けるのを感じました。
 会場を抜け出すだけなのに、どうしてこうも悪いことをしているような気分になるのだろう。まったく心臓に悪い。
(相手が彼女だからか……?)
 眉間にシワを寄せ、少々頭痛のする頭を抑えるカトラス。
 総取締役であった頃から頭痛の種であったが、総取締役を降りてからも悩みの種。カトラスの悩みはそのまま眉間のシワに刻まれます。
「行くの?」
 声を掛けたのはディでした。
 その声に、ふと、違和感を覚える彼。
(こんな声だったか……?)
 記憶を掘り返してディの声を探します。が、全く思い出せません。それもその筈で、ディは声を禁じられた身の上でしたので、喋った事が無いんです。しかし声が無くとも不思議と意志の疎通がしっかり出来るので、実際には何も話していないのに、何故か、会話したような気分になるんですよね。「ディの不思議」に気付いたカトラスは問い質してやろうかと思いましたが、直ぐに思い止まりました。
(彼女の側近なら、こんなこともアリか)
 そんな一言で片付けられてしまうなんて、微妙な心持ちですよ。
「行かないの?」
「いや――…」
 反射的に答え、はっと口許を押さえるカトラス。
 しかし、ウィル様に似た総てを見通したような瞳にカトラスは観念しました。
「内密に頼む」
「そのつもり。芙蓉に、怒られそうだし。――それより、伝えて欲しい事があるんだ」
「…?」
「用事があって、今日は部屋に戻れないって」
 明らかに別の意図が含まれた伝言に、カトラスは複雑な表情を披露しました。
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2. 「NEXT STAGE 17.」


 お風呂で火照った体を涼風に晒して冷やします。窓際に椅子を持って来てそれに座り、月を見上げる私。子どもの頃の記憶にある月よりも幾分か小さくなったそれは、心なしかその色さえも仄かに違っている気がしました。
 温暖な気候のイーストフィールドは夜も程よい気温なのですが、風のお陰でほんの少し肌寒くなります。寒いと言っても震えるまではなく、薄手の服がもう一枚欲しいかな? といったところ。つまり、過ごし易いことに変わりはありません。考え事をするのにも最適ですが、私の場合、考え事と云うよりは諦めの悪い堂々巡りの繰り返しなので、もう今更考えるだけ無駄だからと、自分で自分に言い聞かせていました。
 待ち人は、現在、外城の大広間で行われているパーティーの主役です。頃合を見計らって来るとは言っていましたが、そう簡単にはいかないでしょうから、真夜中まで待つ覚悟でいました。
 しかし思ったよりも早く部屋の扉がノックされます。
 どきどきと脈打つ心臓を無理矢理抑え付けて、ゆっくりと扉を開きました。
「遅くなってすみません」
 低い声で謝罪する待ち人――カトラス。様子は普段通りなのですが、服装がパーティー用の礼装なのでいつもよりもキリッとして見えます。議会の上役やイーストフィールドマスター・マクラレーン様が放つような威圧感があり、ちょっと……いえ、かなり、恰好いいかな、なんて……。いつもと違って今日は眼鏡をかけていません。胸元のポケットにしまいこまれています。印象が違って見えるのはきっとそれが原因ですね。急いでいたらしく、首周りが少し肌蹴はだけているのがまた色っぽいんです。誘惑されているような気分になるのは、私が動転しているからでしょうか。
「如何されました?」
「あ、いえ」
 直ぐに首を振り、彼を中へ案内しました。
 室内に設置されたテーブルセットの椅子に座って貰い、飲み物を用意します。水やお茶もあるのですが、せっかくのパーティーを抜け出して貰ったのだからとお酒を用意してみました。あいにくとここには東方王妃レイチェル様のお部屋と違い私も飲めるような軽いものしか置いていないので、酒豪のカトラスには物足りないかもしれません。しかし侍女に頼んで強いお酒を持って来て貰うと怪しまれてしまうかもしれないと思い、それは控えさせて貰いました。なのでこれで我慢して下さい。
 グラスの八分目まで注ぐと、甘いアルコールの匂いが仄かに漂います。
 カトラスの真正面に座る私。ちょっと居心地悪いです。
 ――どのくらいの時間が過ぎたのか、そんなに、長くは無かったと思います。
 沈黙を破り、私が先に口を開きました。
「明日の朝、ここを出ます」
「! ――それはまた……、随分、急……ですね」
「本当はずっと前から決まっていたんですけど、その……言うタイミングが、なかなか掴めなくて……」
 こんな風に向き合って、落ち着いて話すのは本当に久し振りです。だからなんでしょうね、こんなに緊張するのは……。
 そしてまた沈黙。二人の間に気まずい空気が流れます。それを振り払うかのように、今度はカトラスが口を開きました。
「芙蓉様は――」
「その呼び方はもう止めてください。総取締役は解任されましたし、実はちょっと、無理、してるでしょう? 敬語」
「…………」
 無言は肯定ですね。
「気にしませんから」
 だからもう止めて下さい、敬語。
 図星を突かれた彼は暫し言葉を止めます。やがて結論を出したのか、ふ、と、口の端を持ち上げました。
「名前を」
「――…え?」
「名前を未だ、聞いていない」
 名前……。ふと、脳裏に、ずっと以前にカトラスから本名を教えて欲しいと請われた事を思い出しました。その時は、「私は芙蓉だから」とはぐらかしましたが、今度ばかりはもうそんな言い訳も通用しません。……彼には、もう、言い訳を、する必要もありません。
 私達は、互いに、対等になる為に、ここに在るのですから。
「……蓮華。御堂院、蓮華」
 名乗って、もう一度しっかりと、私達は真正面から向き合いました。
 ついさっきまで胸の裡を嵐の様に吹き荒んでいた不安が消え去ってしまっています。迷いはもうありませんでした。
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1.2.3.

3. 「NEXT STAGE 18.」


 自慢するわけではありませんが、私がここに至るまでの道程はとても長い時間が掛かりました。しかも無為な時間がとても少なく――人生を無駄にしていない分だけ、話さなければならない事も多く、話の途中で面倒だなと思う場面も何度かありましたが、どんな些細な事もどんな苦しい事も今の私を形作った大切な出来事です。とても沢山の時間を費やして、出来事の一つ一つをなるべく洩らさないように丁寧に話しました
 話しを聞き終えたカトラスの顔は、正直、渋かったです。
 ……何と云うか……明日、大津波が来るとか、月が爆発するとか、そんな話しを聞かされた後、みたいな。……分かり辛い? まあ、いいじゃないですか。とりあえず、そんな雰囲気です。
 ぐっと引き結ばれた唇。眉間のシワ。目尻に込められた力。口や顎を覆うように手を当てるのは、長考するカトラスの癖。それらの仕草一つ一つが、私の話しを未だ消化しきっていないと物語っています。
 話し、長かったですし、仕方ないですけどね。ただ返答を待つ身としてはとても長く感じる沈黙です。話しの内容が内容なだけに下手にこちらから声を掛けられません。
 ああ、やはり、包み隠さず隅から隅まで総て話してしまったのがいけなかったのでしょうか。せめて一部は隠したままが良かったのでしょうか。隠した方がいいところ、沢山ありましたよね。特に私のプレイガールっぷりとか? あれは無駄だったかもしれません。もしかしたらカトラスの神経を逆撫でしてしまったのかも……。巧くオブラートで包んで、様々な分野の勉強をしたとだけ伝えれば良かったのに……。今となってはやたらと回転率の良い私の舌が恨めしいです。どうして次から次へとポンポン話題が出てくるんでしょう。私の過去がそれだけ話題に尽きない証なのでしょうが、真面目に嬉しくありません。今更、帳消しにしろなんて言いませんよ。しかしせめてその余計な部分と思われる場面を私の脳内から削除出来ませんでしょうか。ああ、誰にお願いしているんでしょう、私。どうしましょう、私。カトラスさっきからずっと黙ってばかりで間が持たないのですが、そろそろ何か一言くらい感想を頂けないのでしょうか。いい加減、私の思考もそろそろ能力低下するかと……。
 はぁー……。
 海を掘り下げて大陸プレートまでをも粉砕するかのような、とてつもなく深い溜め息。
 ……確かに、現状を打破する行動が欲しいとは思いましたが、何もそんな溜め息が欲しかったわけではありません。明らかに苦悩が混じった溜め息を前に、心が、溜め息が作った道を辿って落ち込んでいくのを感じ取りました。
「……ごめんなさい……」
 そんな言葉、言いたくなかったのに、出てきてしまいました。
 話せと言ったのは彼ですし、話そうと思ったのは私です。誰が悪いなんて事はありません。だから「ごめんなさい」なんて必要ないんです。しかしカトラスの眉間に刻まれた懊悩おうのうを見ると、謝罪せずにはいられませんでした。
「ああ、いや」
 それからすまない、と、付け加えるカトラス。それからまた沈黙。
 ……やっぱり、言わなければ良かったのかな……と、後悔が頭をもたげます。真正面から彼と向き合えなくなった私はさりげなくそこから離れ、窓辺に近付いて空を見上げました。月の位置が随分移動しています。東から西へ、一定の距離を隔て――むしろ、少しずつ離れながら、しかし離れられずにいる月。煮え切らない永遠の友。その微妙な距離感が私とカトラスを示しているような気がして、ちょっとムッとします。いっそのこと潔く、太陽の力を借りて光るあの衛星を、私が打ち落として差し上げましょうか。そうすれば多少は私の気も晴れるかもしれません。……って、そんな、他人様にご迷惑を掛ける鬱憤晴らしなんてしちゃいけませんよね。
「…………」
 不意にカトラスの気配が動きます。
 しかし不毛な思考に没頭していた私は全く気付きません。――気付いた時には既に彼は私の背後に立っていました。
 すっ、と、伸びてきた腕が、私の首をぐるりと囲んでしまいます。その腕に力が込められ、必然的に、私の後頭部は彼の胸に、とん、と、当たります。
「……カトラス?」
 返事はありません。
 代わりに、彼の右頬が、私の左のこめかみ辺りに摺り寄せられました。
 膝枕とかしたことありますけど、こんなに接近したのは初めて……ですね。
 しかし不思議と動揺はありません。同時に、冷静でもありません。頭の中、真っ白です。打算とか、計算とか、している場合じゃなくて。というか、考えるスペースなんてなくて。こういう場合、どうするべきかとか、どんな言葉を掛ければいいのかも、何も、思いつかなくて……。
 背中から伝わってくる温かさを、受け入れる事しか出来ません。
 それ以外、何も出来ないけど……。なんて、いうんでしょうね。こういうの。嬉しいとか、そんな言葉じゃなくて……。
 ――至福。
 ……ああ、そう……ですね。この上も無く、幸福な――。何も無くて、空っぽな心が、透明な何かで満たされている感じ。おなかいっぱいなのとは違って、何も無いのに、いっぱいいっぱまで膨らんでいる感じ。――そんな、感じ。
「追いつかない、筈、だな」
「……え?」
「ずっと、思っていた。今回の拝銘式でも、マクラレーン様の顔を立ててばかりで、オレ自身が生きていない……。お前みたいな舵取りには、程遠かった」
「…………」
「追いつける筈が、ない――な」
 ぐっと、彼の腕に籠もる力が強まります。顔もさっきより随分近くなりました。彼のおでこが私の左肩に乗っています。
「……カトラスはカトラスらしい総取締役になればいいと思いますよ」
 私の「総取締役」は、ちょっと、特殊でしたから。
「私のようになる必要はありません」
「確かに」
 肯定するカトラスの声は、うつむいている所為か、すこしくぐもっていました。
「全部が全部、真似する必要なんて馬鹿馬鹿しい。……だけど、お前が今までやって来たことは、オレを総取締役に就けるため――自身が、事務総長になる為だけではなかっただろう? 東方王宮と、そこに居る者の為に動いていた瞬間もあったはずだ。――オレはそれを引き継ぎたい」
 ずきんと悲鳴を上げる私の胸。
 ――解ってくれる人が居る――。
 先日フェルゼンが言っていたのは、きっと、このことだったのでしょう。本当の意味で人が他人を理解出来なくても、無理していると、強がっていると、気付いてくれる人。気付くこと――それが、「解る」ということ。僅かでも、せめて、その事に気付いてくれる人が傍に居るだけで、どれだけ救われる事か。……フェルゼンはあの時、そう言いたかったんですね。
 薄らと目頭に浮ぶ涙。潤む視界。それを誤魔化そうと、瞬きの回数を増やし、少し首を上に向けます。けれど誤魔化しきれずに、左目から一筋だけ雫が零れました。
「――カトラスなら……きっとなれるよ」
 あなたが目標とする影を追い越して、あなたらしい存在に。
「……ああ」
 低く囁く声は、吐息が耳にかかるくらい、近い場所。
 声の余韻が、耳の奥でずっと響き続けます。
 それがくすぐったくて左手で耳を押さえると、手の甲が彼の唇に近い場所にぶつかりました。
 手を、邪魔だと言わんばかりに、顎で払うカトラス。
 ちらりと表情を盗み見しようとし、ぶつかり合う視線。
 互いの距離を測りながら、近付いたり、ちょっとだけ離れたり。
 それを繰り返して、長い時間を掛けて、私達はそっとキスをしました。
1.2.3.
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