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1.2.

1. 「煙草の香り」


「――…ま。――芙蓉様!」
 あ。
「はいっ」
「はい、ではありません。火傷しますよ」
 へ? あ。
「あちぃっ!」
 銜えていた煙草を反射的に落すと、すかさずカトラスが灰皿でそれを受け止めました。
 執務室の中が、独特の匂いで満たされています。
 あんなに皆に知られないように気を遣っていたのに、無意識の内に吸っていたみたいです。今までの苦労が水の泡ですね。
 カトラスは何も言いません。女性が煙草を吸うなんて、ましてや執務室で吸うなんてと怒りもしません。私の身近な人間の中で一番怒りそうなタイプなのに、無言で私の前に新品の灰皿を置きます。――いえ、きっと本当は怒りたいんでしょう。眉のとこ、ちょっと引き攣っています。けど我慢してくれているんですね。私に気を遣って――…。
「……御免なさい」
「謝られる理由が分かりませんが」
 冷淡に聞える声音です。何時もの私ならきっと怖がっていたでしょうけど、今日の私にはとても優しく聞えました。
「――…芙蓉様」
「はい?」
 ……って。
「あれ? ……今、何て?」
「…………。芙蓉様、と」
 そっぽを向いてちょっと子どもっぽくカトラス。
 芙蓉。それは、必要無いと云う意味の不要に繋がっているため彼が呼ぶ事を躊躇っていた名前です。時々、勢いに任せて思わず呼んでしまう事は多々ありましたが、それ以外の時は極力名前を呼んでくれませんでした。
 その彼が今、その名前を呼んでくれています。
「どういう心境の変化ですか?」
 質問して返答を貰う迄に、少し、間が空きます。
 カトラスは暫し視線を遠くに向けました。まるで何かを思い出そうとしているみたいです。何なんでしょう?
「先程、あの男――いえ、彼、が、貴女を、貴女の本名と思しき名で呼んだかと思いますが」
「……はぁ……」
 懐かしい声で。
 懐かしい名前を。
 確かに彼は、呼んでいました。
「芙蓉様は、あの時、御自分がどの様な顔をされていたか覚えておいでですか?」
「――は?」
 顔って……。
「私、そんなに酷い顔をしていましたか?」
「もしもこの世に絶望を正確に表現するものが存在するのであれば、それは間違い無く、あの時の貴女の表情だと思いますよ」
 ――絶望。……そうですか。私、そんな顔してましたか。
「それはさて置き、私はそろそろ昼食を取って来ますが、芙蓉様は如何されますか?」
「あ……私は未だいいです」
 首を振って遠慮しました。
 こんな落ち込んだ気分なのに、食事だなんて無理です。食欲もありません。本当は食べたいんですよ。お腹も鳴りそうな位空いています。けれど胸が一杯でそんな余裕ありません。御免なさい……。
「では、侍女に申し付けて何か軽いものを運ばせますよ」
 私の様子を窺っていたカトラスがそう申し出ました。……いえ、申し出と云うよりほぼ命令ですね。こうでも言わなければ絶対に食べないと思ったのでしょう。実際、そのつもりでしたし。しかし、せっかくの優しさと気遣いです。無下に断るわけにもいきません。
「……分かりました」
 小さく頷く私を確認し、彼は執務室を後にしました。
 カトラスが部屋を出て、後に残ったのは私一人。ディは居ません。コレットと一緒にあの赤ん坊のお世話です。あの子のお姉さん――ミュゼ様がウィル様と御歓談中なので、その間のお世話を二人が申し出たんです。今頃は三人で楽しくやっているでしょう。
 ちょっと……いえ、かなり助かったかもしれません。今の私の姿、誰にも見られたくありませんから。
 仕事をし過ぎた時の様に疲れて、心がとても重たいです。いつもはどんなに忙しくても少しだけ余裕残しているのですが、今回はちょっと無理みたい。そもそも、何時もの余裕もカトラスが仕事を大幅にサポートしてくれるからであって、決して私自身に余裕があるのではありません。私独りでは到底出来ません。
 それでも、独りでも考えなければいけない事があります。
 ――織也。
 まさかこんな所で会うなんて……。恐らくこれは、ほぼゼロに近い確率の再会です。奇跡の賜物かもしれません。
 けれど私はそれを喜ぶ気にはなれませんでした。
 別に彼が嫌いってわけじゃありません。人が苦手で友達の居なかった昔の私が唯一長く接していられる人でしたし。彼の、常に他人を理解しようとする姿勢は、今考えてみるとあの頃の私の救いだったかもしれません。だから嫌いじゃないんです。でも……。どうしても……。
 内ポケットから煙草を取り出して火をつけます。煙と一緒に吐いた息はどちらかというと溜め息でした。独特の香りが室内を満たしていきます。
 ――ふと、気配を感じて顔を上げると、扉の所に小隊長ファングとお盆を持った料理メイドのリンが立っていました。
「うわっ」
 吃驚しました。一体何時からそこに居たんですか。
「うわ、は、ねーだろ。何回ノックしても返事が無いから心配したのによ」
「あたい何度も芙蓉様って声掛けたのにぜーんぜん気付いてくれないし、ねー?」
「なぁ?」
 頷きあう二人。
 そうだったんですか……。全然気付きませんでした。
 未だ半分残っている煙草の火を捻り消して二人を迎え入れます。
「芙蓉様って煙草吸うんだ。意外かも」
「すげー、匂いだな。何の銘柄なんだ?」
「ロイヤル・ローズ」
 略してロイズと呼ばれています。
「うわっ。めちゃくちゃ高級品じゃんか」
「へー、そうなんだ。あ、芙蓉様ってもしかして成金趣味?」
「バカ。こういうのはブルジョアってんだぜ」
「貴方達は一体、何をしに来たんですか」
 ちょっと怒っていいですか? 
「あ、そうそう。あたい、芙蓉様に食事運んで来たんだよ。カトラス様に頼まれてさ」
「俺はカトラスの様子がおかしかったから、原因であろう相手に会いに来ただけ」
 リンの理由は直ぐに納得しました。流石カトラスです。仕事速いですよね。
 差し出されたお盆の上には、私好みの料理が乗せられていました。どれもこれも胃に負担を掛けないもので、カトラスの心遣いが窺えます。食後のデザートまで完備。女性が食べる量にしてはかなり多いですが、そこは男と女の感覚の差なのでしょう。カトラスって女性とデートとかしなさそうですし、「そういう部分――男と女の差――を聞いた事はあるけれど実践で試した経験は無い」って感じがお膳の全体から滲み出てて、それが妙に嬉しくて。あぁ、カトラスが選んだんだなぁって、思わず顔がにやけてしまいました。
 しかし問題はファングの理由です。
「カトラスの様子がおかしいって、どうかしたんですか?」
「…………」
 呆れた顔で私を見るファング。
 あ、あれ? 私、何かおかしなこと言いました?
「あのさ、一つ聞いてもいいか?」
「何ですか?」
「今回の騒ぎの事で、なんかカトラスに話したか?」
「いいえ……」
 そんな、話せる筈がありません。私個人の件で忙しいカトラスを煩わせるわけにはいきませんから。騒ぎが起きているとは云え、騒動ではありませんし、その所為で宮廷の仕事に何ら支障はありません。カトラスは関係ありませんよ。
 しかし、そんな私の思惑とは対照的に、とても深い溜め息をつくファング。溜め息と一緒にその場に座り込んで落ち込んでいる事を表現します。
 え? あ、あれ? あれれ?
「駄目、なんですか?」
「あのなぁ……。取締室室長っつったら、実質的な総取締役補佐官だろ。立派な右腕じゃねーか。その右腕が、個人的な事とは云え相談一つとか侘びとか一言とか、とにかく何にも言われなかったら心配するだろ、ふつーよ」
 ましてやあんな騒ぎになっているんだ。一言何か言うのは礼儀だとファングにお説教されてしまいました。……なんか、いつもと立場が逆で変な感じですが。
「そういうものなんでしょうか」
「さぁ、知らね」
 がくっ。
 知らないのにお説教しないで下さい!
「でも、芙蓉様とカトラス様ってそんな仲じゃないの? あたい、ずっとそんな風かと思ってた」
「そんな仲ってどんな仲なんですか」
「雷先生とダメダメ生徒」
「教育ママとなぜなに少女」
 …………。私達は一体どんな目で見られているんでしょう……。謎です。
「とにかくさ、取り合えずなんかちょっとでいいから言ってやってくれないか? それで少しは落ち着くと思うからよ」
「そーそー。カトラス様、今にも倒れそうなくらい落ち込んだ顔してたしさっ。ちょちょいっと声掛けて、安心させてやればいいじゃん」
 ちょっとの意外と、大きな驚きが胸を打ちました。
 カトラス――そんなに心配してくれているんですね。
「それに、いざとなれば俺達も手伝うぜ。まっ、手伝える事があったならだけどな」
「うんうん。あ、元気を出すならあたいのミステリー定食がオススメだよっ」
「いや……あれは拙いだろ」
「マズイなんて失礼だね。最近は料理の腕も上がったんだから!」
「いや、そのマズイじゃないんだけど……」
 と、私を差し置いて何やら言い合いを始めるファングとリン。
 明るく振舞う彼等もまた、私を元気付けようとしている事に気付き、少し……ほんの少しだけ口許を綻ばせました。
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1.2.

2. 「東端の薔薇園」


 東の端、東の森の手前には、手入れの行き届いた薔薇園があります。ちょっと遠いので余り人が近付かない場所です。中央には窓付きの東屋があり、くつろぐ為の長椅子が用意されています。
 そこに横になって昼食後に休憩を取るのがカトラスの日課。
 東屋を覗くと、案の定、彼は長椅子に寝そべっていました。
 近付いても起きる気配は無く、顔を覗きこんでも気付く様子はありません。寝入っているのでしょうか。こんなに良いお天気ですからね。風も気持ち良いし、お昼寝にはもってこいの日和です。
 目を瞑ったカトラスはいつものカトラスのままです。寝顔が可愛いとか、そんなのは一切ありません。切れ長の目に長い睫。引き結ばれた唇。違うのは眼鏡を掛けているか掛けていないか。よく見ると奇麗な肌をしています。ちょっと悔しいかも。
「――何をしているんですか」
「うわっ」
 はー、吃驚した……。いきなり目を開かないで下さい。何だか私、今日は驚いてばかりですね。
「何か緊急の御用でも?」
 体を起こして長椅子に腰掛けます。それから眼鏡を取り出して装着しました。
「……いえ」
 首を振って隣に腰掛けます。……勝手に座ってしまいましたが、別に座っていいと許可を貰う必要ないですよね。
「あの、昼食、有難う御座いました」
 ちゃんと食べましたよ。ただ、量が多かったので申し訳ないのですが全部は食べていません。けれど出来る限り食べつくしました。美味しかったです。
 それから暫く、私達はお互いに黙ったままでした。何を話していいか分からず、どんな話から切り出せばいいのか分からなくて、沈黙を通します。
 ――どれくらいの時間が過ぎたでしょう。意を決して、私の方から話し掛けました。
「……ファングが、来たんです。ちゃんとカトラスと話し合えって」
「――必要ありません。貴女個人の御話しでしょう」
 淡々とした事務的な口調。けれど何故でしょう。その横顔が、少し強がっている様に見えました。きっと、ファングがあんな事を言った所為ですね。私も、そう思っていて欲しいと思っているから、そう見えてしまうのかもしれません。だからなんだと思います。怖い筈のカトラスがとても優しく見えるのは。……勿論、彼が怖いだけで無いことは以前からちゃんと知っています。けれど今日は特にそう思えました。
「でも、心配してくれたでしょう? だからちゃんと言いたくて。――有難う」
 長椅子に座ったままでしたけど、きっちり頭を下げました。
 真上から少し傾いた太陽。光を受けて色を反射する薔薇。花の香りを運ぶ風が、東屋の中に入り込んで来ました。
1.2.
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